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軍人史跡 蘇野

陸軍歩兵中尉 柳原楠次墓所

柳原楠次墓
柳原楠次の墓(正面)
柳原楠次墓
柳原楠次の墓(裏面)
◆幕末の京都で恐れられた剣士 岡田以蔵が眠る事で知られる高知市北部蘇野にある真宗寺山。
この岡田以蔵の墓から進んで東側の下りに入る付近に少し木に隠れているがそれでも大きな丸い川原石の墓が目に入ると思う。
「贈従五位 柳原楠次墓」土佐偉人傳にも武門偉勲者として記されている日清戦争で残虐なる清兵により壮絶な最期を遂げた陸軍歩兵中尉である。
母校の校長であった吉田数馬の伝記<海南学校同窓会著・吉田数馬先生>には戦後に吉田校長らによる柳原中尉の顕彰碑が海南学校内(現 高知市九反田の開成館趾が海南学校趾でもある)に建立された事が記されているがその碑がその後どこにいったかは定かでない。
おそらく戦後、その他多くの軍人碑と同様に破壊されてしまったのではないかと想像するが…
柳原楠次墓所全景
柳原楠次の墓所、父庫吾の墓などと並ぶ
<柳原楠次 略歴>
柳原庫吾の第二子、高知市南新町の人。
明治18年海南学校に入学し22年陸軍士官候補生となり24年陸軍歩兵少尉に任ぜられ丸亀第12連隊附に補せらる。
29年歩兵中尉に進み日清戦争に出征、平壌の戦いに功あり。
鴨緑江架橋工事掩護の為沿岸の敵を攻撃す、鳳凰城及び賽馬集付近の偵察の命を受け平井信義少佐に従い敵状を探り大西溝付近に至る。
楠次は更に命を受け部下27人を率い賽馬集付近に進むが敵500騎の包囲する所となり奮闘するも遂に敵弾に中り戦死した。
清兵は楠次の首級及び四肢を切断し且つ衣帽帯剣を奪い去った、清国人は之を憐れみ屍を広い徐家店山腹に葬り戦後我軍始めて之を発見すと云う。
官金を給ふて其の遺族を吊慰し又従五位を追贈す。
<寺石正路著・土佐偉人傳参考>

陸軍少将 川谷致秀碑

陸軍少将 川谷致秀碑
陸軍少将 川谷致秀碑
◆高知市薊野では高速自動車道の建設に伴い、歴史上の人物の墓も移設を余儀なくされた。
江戸時代の画家 中山高陽や土佐勤王党血盟同志で禁門の変で戦死した伊藤甲之助らの墓が移設されたあぞうの霊園。
川谷家の墓所も自動車道建設で既に無くなっているのでは…
と思いながらもあぞうの霊園付近の山中を訪れたところ、建設区域から外れていたようで無事現存していた。
本来なら山の下から上がって来れるよう古い階段も見られるが、すぐ下は私有地で個人宅もある為入る事は出来ない。
墓所は管理する人はいない様子で草木が伸びていた。
川谷家累代の墓、父の川谷佳吉、川谷蘇山の墓等がありひと際大きな丸石が「従四位勲三等功三級 陸軍少将 川谷致秀碑」である。
裏側は致秀の経歴に「生前ノ功徳ヲ偲ビ此み記念ス 昭和十一年一月 甥 佐川町 壬生清枝建之」と記されている。
碑文を読んで知ったが致秀の母は岡山で盗賊に間違われ非業の死を遂げた井原応輔の姉である。
川谷致秀については情報がそろい次第「土佐軍人列伝」に加える予定である。
川谷蘇山墓
川谷蘇山の墓
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