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陸軍工兵の草分け

別役成義 氏名
別役成義(べっちゃく なりよし)


最終階級
陸軍少将 正四位勲二等

生没年
1844年11月10日〜1905年3月27日
弘化元年10月1日〜明治38年3月27日

草創期 工兵
別役陸軍少将 経歴

土佐国鴨部村の人。
父 別役成照(八十平)と母 別役氏の間に生まれ柳馬と称した。
号は故郷の鴨部村にある能茶山からとって「能山」とした。
詩、書画、鑑刀をよくしたが、こと鑑刀においては当代随一との評で同郷の今村長賀とともに宮内省御剣係を拝命され刀剣界の重鎮として知られた。


明治元年、戊辰戦争に土佐藩迅衝隊に属して従軍。
甲府城受取り前、甲府代官から派遣された川上繁之助を連行して蔦木から斐河へと斥候し、城の受取り終わるや秋沢清吉の旨を受け本隊の入城を促す使者を務めた。
ついで東征に加わり今市、白河、若松を転戦し戦功を上げた。
明治4年に御親兵として上京。
御親兵は薩長土の三藩より献じられたが、薩長の歩砲兵の二科兵に対し土佐は歩砲騎工の四科兵で最も軍備が充実しており、工兵に関しては成義達の創意訓練の賜物であった。
これらの功により陸軍大尉に任官する。


明治6年、陸軍少佐に進み9年に熊本鎮台管下の陸軍第6方面堤理代理となる。
明治10年に西南戦争が始まると成義は熊本城籠城となり同郷の谷干城司令官の元、幕僚参謀として卓越した防御計画をたて薩軍を一歩も寄せ付けなかった。
ついで谷将軍の鹿児島出撃の後を受け城に残り工兵を指揮して激戦後の城砦を修復し後顧の憂いをなからしめた。
同年 教導団工兵部長に転じ陸軍中佐 に進み戦功により勲四等に叙せらる。
第5方面堤理、第4方面堤理を歴任、14年には正六位に叙し第2方面提理に補せらる。
17年10月 陸軍工兵会議長心得に補せられ工兵大佐に進み11月従五位に、18年11月 勲三等旭日中綬章を賜う。

別役成義1
日露戦争写真画報より


20年6月 工兵監に補し23年8月には陸軍少将に進級とともに予備役に編入された。
日清戦争が始まると留守第3師団長事務取扱に補し28年8月功により勲二等瑞宝章を賜う。
ついで33年の北清事変に際しては留守第五師団長に補せられ後方の守りを務めた。
その後は後進の育成に努め明治38年3月東京牛込鷹匠町邸で病没し郷里の高知市旭に葬られた。
享年62歳、特旨を以て正四位に叙し旭日重光章を賜う。
夫人伊木氏との間に二女あり、矢野初太郎の三子友顕を養子に迎え家を継がしめた。


参考資料
書籍名著者出版社
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
稿本 鴨田地区史 人物編2鴨田郷土史編纂委員会鴨田郷土史編纂委員会
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
土佐藩戊辰戦争資料集成林英夫高知市民図書館
日本刀講座 別巻の2小倉惣右衛門雄山閣
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
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