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千葉県出身陸軍軍人

日露戦争に後備歩兵第1旅団長として出征
隠岐重節 氏名
隠岐重節(おき じゅうせつ)

最終階級
陸軍少将 正五位勲二等功三級
生没年
1848年4月11日〜1906年4月21日
嘉永元年3月8日〜明治39年4月21日
<草創期 歩>

■経歴
下総國印幡郡佐倉根曲輪(現:千葉県佐倉市城内町)に生まれる。父は隠岐重道と云った。
幼年の頃より文武を研修し若年にして天狗党の乱などの争乱に参加、戊辰戦争の頃には藩主堀田正倫に従い上京し後近侍となる。
明治3年大阪兵学寮で兵学を5年3月卒業して陸軍少尉に任官、教導団附となる。
6年2月教導団歩兵第1大隊附、また3月には連隊旗手を命ぜられ9月陸軍中尉心得に進む。
7年の佐賀の乱に参戦し平定後、3月東京鎮台歩兵第13大隊附副官心得に転じ後陸軍中尉に進むや同隊副官に補せられる。
8年4月歩兵第14連隊第2大隊副官に転じ5月には戸山学校に入り9年6月卒業し同校教官に就いた。
■西南戦争に従軍
10年に西南戦争が始まると別働第2旅団に編入され6月陸軍大尉に進み中隊長を以て各地を転戦し右肘に銃創を受ける。
戦後、再び戸山学校教官に復し11年6月小銃試験委員、13年9月西部検閲監軍部長属員を命ぜられ12月士官学校生徒隊附、14年8月東部検閲監軍部長属員、15年4月村田銃分解結合及び装填法取調委員などを転任。
16年2月陸軍少佐に昇任、再び戸山学校教官に転じ陸軍大学校御用掛を兼勤、17年5月歩兵操典改正委員、平時行軍勤務書編纂委員となり7月再び東部検閲監軍部長属員、9月陸軍大学校教授を兼務し12月當分教頭事務取扱を命ぜられる。
18年7月西部検閲使属員、19年3月歩兵操典取調委員、20年9月歩兵野外演習軌典審査委員、次いで東京諸官廠士官学術審査委員、22年1月陣中軌典草案委員を命ぜられる。
23年10月歩兵第3連隊第1大隊長に転じ24年9月には陸軍中佐に進み歩兵第1連隊長に就任、26年3月将校生徒試験臨時委員を務めた。
■日清日露戦争
日清戦争には第2軍隷下第1連隊長として乃木希典旅団長の指揮下にあり金州、旅順の攻略に参戦し12月陸軍大佐に進む。
その後も蓋平城の占領、営口、田庄台などに転戦し凱旋後、戦功により功四級を叙される。
戦後、28年12月教導団長、31年3月歩兵第23連隊長を歴任し34年6月陸軍少将に昇るとともに予備役編入となる。
しかし日露開戦となるや後備歩兵第1旅団長として復帰し従軍、戦功により功三級に叙される。
戦後間もない明治39年4月に59歳で死去した。



沙河会戦 白兵戦の末斃れた驍将
鵜澤総司 氏名
鵜澤総司(うさわ そうし)

最終階級
陸軍歩兵大佐 従五位勲三等功三級
生没年
1861年〜1904年10月16日
文久元年〜明治37年10月16日
<士官生徒五期 歩兵>

■経歴
千葉県山武郡公平村道程四四〇平民にして旧下総佐倉藩士 鵜澤総一郎の二男に生まれる。
明治9年7月 陸軍教導団に入り成績良好、翌年の西南の役には18歳にして従軍し狙撃隊で働いた。
次いで陸軍士官学校に入り15年 少尉に任ぜられ歩兵第8連隊附に補し19年頃 中尉に進み従七位に叙せらる。
21年 幼年学校生徒隊中隊附となり日清戦争では比志島支隊の副官として出征する。
31年2月 少佐に進級し勲五等功五級に至る。
36年6月 中佐に進み37年3月 歩兵第41連隊長に補し日露戦争に出征。
沙河会戦での白兵戦に於いて敵の将兵4人を倒すも後頭と背を刺され桑蘭子に戦死した。
死後大佐に昇進、従五位勲三等功三級 旭日中綬章を叙賜せらる。
妻 正子との間に六子あり長男 尚信は後に陸軍中将まで昇った。

参考資料
書籍名著者出版社
征露戦報実業之日本社
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
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