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福岡県出身軍人

今謙信
小川又次 氏名
小川又次(おがわ またじ)

最終階級
陸軍大将 正二位勲一等功二級 子爵
生没年
1848年8月22日〜1909年10月20日
嘉永元年7月24日〜明治42年10月20日
<草創期 歩兵>

■経歴
メッケル少佐に児玉源太郎と共に高く評価され、その高い作戦能力から上杉謙信になぞらえ「今謙信」の異名を持つ。 小倉藩士 小川兼宣の長男で幕末には長州征伐に従軍している。
維新後、兵学寮卒業後の明治5年に少尉任官し台湾出兵に従軍する。
西南戦争には歩兵第13連隊大隊長として出征し戦傷を負っている。
戦後累進し清国派遣などを経て大阪、広島鎮台の参謀長を務め歩兵第八連隊長、参謀本部管西局長、参謀本部第二局長を歴任した。
明治23年には少将に進み歩兵第4旅団長に就任、近衛歩兵第1旅団長を経て日清戦争開戦となり第1軍参謀長に任命され出征した。
近衛歩兵第二旅団長を務め中将昇進と共に第四師団長となり日露戦争を戦う。
卓越した用兵で味方を勝利に導いていた小川であったが遼陽会戦で敵弾が小川の陣中で炸裂し重傷の為に戦線を離れる事になる。
戦役中に大将に進んだが傷が癒えずその後も復帰することは遂にできなかった。



悪戦居士の異名をもつ連隊長
島田繁 氏名
島田繁(しまだ しげる)

最終階級
陸軍歩兵大佐 正五位勲三等功三級
生没年
〜1905年3月2日
〜明治38年3月2日
<士官生徒一期 歩>

■経歴
福岡県糟屋郡須惠村大字佐谷四三五士族にして明治8年 陸軍士官学校に入り12年歩兵少尉に任じ熊本鎮台歩兵第14連隊第2大隊小隊長に補す。
14年 中尉に進み叙従七位、16年花房公使護衛として派遣され功を以て金品の賞典あり。
20年 大尉に進み歩兵第17連隊第3大隊中隊長に補し従六位勲五等に叙せらる。
日清戦争では山東、台湾に転戦し28年8月 少佐に進級し同連隊第2大隊長に転じ戦功により功四級勲四等に叙せらる。
34年頃 第3師団副官となり中佐に進み、36年歩兵第29連隊長に補し日露戦争を迎える。
遼陽会戦に於いて微傷を負うが包帯のまま戦線で奮闘、黒溝台の戦いでは後方にあり参戦できずにいるも38年3月2日奉天会戦に於ける大嶺の戦闘で最期を遂げた。 死後、大佐に昇進し正五位、また特旨を以て勲三等功三級に叙し旭日中綬章を賜う。
仙台に於いて葬送に付き勅使として宮城県知事 田邊輝實を差遣され白絹二匹を下賜せらる。

☆悪戦居士の異名をもつ。
☆大嶺の戦闘では大悪戦の折り一中隊が敵の猛烈なる射撃に耐えかね後退する様を見て大声叱咤「東国武士の名を汚すな」と、自ら棍棒を振って先登に立ち堅固なる敵の鉄条網の一端を破壊、これに勢いをを得た将卒は遂に鉄条網を破り一大突撃するも敵の機関砲は益々猛烈を極め繁も顔面に負傷を負い鮮血に顔を染めながらも指揮を続けたと云う。

参考資料
書籍名著者出版社
征露戦報実業之日本社
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房


平民の出から陸軍大将に
島田繁 氏名
仁田原重行(にたはら しげゆき)

最終階級
陸軍大将 従二位勲一等功三級
生没年
1862年11月23日〜1925年3月24日
文久2年10月〜大正14年3月24日
<士官生徒六期 歩兵>

■経歴
福岡県平民 仁田原周蔵の三男として筑後国八女(現:福岡県八女郡黒木町本分)に誕生。旧名を谷三郎と云う。
江碕済の開いた黒木塾で学び軍人を志す事になる。士官学校卒業後の明治16年に陸軍少尉任官、更に陸軍大学(第四期)を卒業し爾来進級を重ねる。
日清戦争、北清事変に出征し35年には陸軍大佐に昇進、第五師団参謀長に補される。
日露戦争開戦により出征し戦功を上げた。戦役中の38年4月陸軍少将、歩兵第7旅団長に就任。
独立守備隊司令官、歩兵第一旅団長を経て45年2月陸軍中将進級と共に第2師団長に就任する。
以後、第4師団長、近衛師団長、東京衛戍総督を歴任。
大正7年7月平民の出ながら遂に陸軍大将に昇った。
軍事参議官を務め10年7月予備役編入され、大正十四年三月肺炎の為逝去した。享年63歳。

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