軍人史跡 五台山
陸軍歩兵中尉 小笠原於菟彦墓所
![]() 小笠原於菟彦の父和平や母多津ら一族の墓所 |
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◆「土佐偉人傳」に掲載されている小笠原於菟彦の墓所を訪ねようと思い立たった。 最初、父の小笠原和平の墓所がある場所にあるだろうと考え「土佐の墓」を参考に高知市介良の源希義の墓の上方にある墓を訪れてみたが、ここには於菟彦の墓は見当たらず和平の墓にお参りをしてその場を後にした。 <小笠原和平 略歴> 於菟彦の父和平は土佐勤王党血盟同志の一人で首領武市瑞山の甥にあたる人物で、於菟彦は瑞山の又甥と云う事になる。 幕末は勤王党員として国事に奔走し慶應元年の瑞山切腹の時には島村寿太郎と共に介錯を務めた。 戊辰戦争にも従軍し維新後は県で官職に就き観業課長になった。 明治十六年三月二十七日没 享年四十二歳 <山本泰三著・土佐の墓参考> |
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![]() 陸軍歩兵中尉 小笠原於菟彦墓 |
この後たまたま訪れ散策していた高知市の五台山「兼山神社」から墓参道を歩いているとひと際目立つ墓を発見しおもむろに覗き込むと。 そこに記されているのはなんと「陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級 小笠原於菟彦墓」だった。 和平ら一族がここに導いてくれたのか、まさか数時間後に発見する事になるとは思いもしなかった。 墓碑銘は陸軍中将 岡崎生三によるものである。 <小笠原於菟彦 略歴> 高知市雑喉場の人。初め海南学校に学び後陸軍士官学校に入り明治36年陸軍歩兵少尉に任ぜられ善通寺歩兵第43連隊小隊長に補せらる。 日露戦役起こるや旅順攻囲軍に加わり数度の戦に参加し功あり。 第三回総攻撃の時、双子山奇襲の命を受け功撃隊、砲台破壊隊、牽制隊に分かれた内の功撃隊に属し隊長野口大尉以下102名と共に出発する。 敵の散兵壕に突撃し砲塁の一角を占領し翌日には遂に双子山を占領し将卒35名留まりこれを守るも敵の逆襲に遭う。 於菟彦奮戦するも敵弾胸部を貫き遂に斃れた、この烈戦の生存者はわずか5名であったと云う。 享年22歳この日陸軍中尉に進み功五級金鵄勲章、勲六等單光旭日章を給はる <寺石正路著・土佐偉人傳参考> |
元近衛陸軍大尉 平尾喜壽墓所
![]() 平尾喜壽墓所 |
◆五台山南側斜面に広がる墓地の中に元近衛陸軍大尉の墓がある、竹林寺への参拝道を少し横にそれた場所なのでわかりにくい。 戊辰戦争では迅衝隊十一番隊長として功あり。 御親兵献上の際小隊長となり、陸軍大尉として新政府に出仕するも征韓論破裂により下野し陸軍に戻ることなく、その後士族授産の為に製茶を以てその世界に功を成した人、平尾左金吾こと喜壽の墓である。 明治四十五年一月六日没、享年六十五歳。 <山本泰三著・土佐の墓/寺石正路著・土佐偉人傳参考> |