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広島県出身陸軍々人

日清戦争の猛将
佐藤正 氏名
佐藤正(さとう ただし)

最終階級
陸軍少将 従二位勲三等功四級
生没年
1849年7月20日〜1920年4月27日
嘉永2年6月1日〜大正9年4月27日
<草創期 歩兵>

■経歴
広島藩士 佐藤真五郎の四男として誕生。明治五年から陸軍に出仕し西南戦争に従軍している。
大阪、名古屋の鎮台参謀を歴任。明治21年 歩兵第24連隊長、24年には歩兵第18連隊長に任命され日清戦争を戦う事となる。
日清戦争中の働きはめざましかったが平壌攻略戦で負傷し脚部切断となり戦後退役した。 退役後も広島市長や宮中顧問官に就任している。



工廠提理として兵器製造に尽力、特に火砲製造に貢献した軍人
太田徳三郎 氏名
太田徳三郎(おおた とくさぶろう)

最終階級
陸軍中将 従四位勲二等功四級
生没年
1849年9月4日〜1904年9月6日
嘉永2年7月17日〜明治37年9月6日
<草創期 歩兵>

■経歴
広島県平民田中庫三の長子として安藝國廣島比字山(現:広島県)に誕生し幼少時に親戚の太田與右衛門の跡を継いだ。
浮組隊に於いて小銃大砲の使用法を学び、植木直之進や高木忠次郎に漢学を習い慶應元年より江戸に出て開成所でフランス語を学ぶとともに市川齋の家塾で佛学を研究する。
横浜、神戸に遊学の後明治元年10月藩命によりフランスに留学し4年3月陸軍生徒を命ぜられ兵学を修め8年9月帰朝後陸軍七等出仕となり士官学校教官に補される。
9年3月砲兵廠附、11月参謀局第3課出仕となり10年4月陸軍大尉に任ぜられ砲兵支廠附となり5月砲兵支廠鍜工所監務に補され11年2月より砲兵支廠木工所監務を兼勤。
12年10月大阪砲兵工廠製車所監務、13年10月製砲所附に転じ14年4月大砲制式取調委員を務めた。
14年7月より軍事視察の為欧州に渡り15年4月帰朝、6月陸軍少佐昇任とともに大阪砲兵工廠御用掛を命ぜられた。
17年8月砲兵教練書取調委員を命ぜられ18年2月砲兵局に転じ砲兵会議御用掛を兼勤、5月には砲兵会議議員に補し19年1月より鳥尾小彌太の欧州派遣に随行を命ぜられ20年1月に帰朝する。 5月砲兵会議模範掛に補され21年1月より小口徑連発銃制式審査委員を務め5月砲兵会議事務官兼砲兵会議議員を経て陸軍中佐に進み砲兵第1方面提理に転任。
22年3月要塞砲兵幹部練習所長、11月大阪砲兵工廠提理を歴任し25年11月陸軍大佐に進み砲兵会議臨時議員を命ぜられ、また野戦砲改良審査にも係わった。
日清戦争では第4師団に属し後方勤務を命ぜられ兵器弾薬の制作、修理を管理の為国内を駆け回りこの戦役中の功績により功四級に叙された。
戦後も大阪砲兵工廠提理の職にあり30年9月陸軍少将に進み35年5月陸軍中将進級とともに予備役編入となる。
明治37年9月日露戦争の最中に病没した。



後に広島市長となった軍人
田部正壮 氏名
田部正壮(たなべ まさたけ)

最終階級
陸軍中将 正四位勲二等功三級
生没年
?〜1939年9月21日
?〜昭和14年9月21日
<草創期 歩兵>

■経歴
明治8年に中尉で任官し西南戦争に出征している。
日清戦争には第二軍兵站司令官、近衛師団兵站監などを務め戦争末期に台湾総督府副官に任命された。
歩兵第2連隊長を経て歩兵第16旅団長として日露戦争に出征し後、第5旅団長に転じ各地を転戦した。
明治40年後備となりその後は広島市長などを務めた。

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