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軍人史跡 広島市

比治山陸軍墓地

比治山陸軍墓地正門
比治山陸軍墓地正門
比治山陸軍墓地を記す碑
比治山陸軍墓地を記す碑
比治山陸軍墓地の整然と並んだ軍人の個人墓
比治山陸軍墓地の整然と並んだ軍人の個人墓
◆広島市内南区にある比治山に3500基もの墓石がところせましと並べられた比治山陸軍墓地がある。
西南戦争から大東亜戦争までの戦没者が祀られていると云う。
墓地内には説明板も幾つかあり、その一つを転載した方がこの陸軍墓地の由来がわかるだろうと思い記させて頂く。
比治山陸軍墓地略誌
比治山陸軍墓地略誌
≪比治山陸軍墓地略誌≫

昭和十九年比治山陸軍墓地の埋没廃棄!ああこの冒涜こそ恐るべき原爆を以て啓示された厳しい天譴でなかつたろうか。
抑、比治山陸軍墓地は明治草味より世界の日本となつた八十年の我国運を示す西南の役、日清、北清、日露の役より満州事変を経て大東亜戦に至る四千五有余の殉国の勇士 −それは沖縄を除く四五都道府県に及ぶ− を葬った墓地であり東は号砲台(現在のNHKテレビ塔)を境として比治山の西南高地一帯に亘り現在の再建墓地 ABCC展望台を含む景勝の地域に一基一基整然と建立され、春は桜花の霞に包まれ、秋は紅葉の錦に飾られ、展望台に至る現在の道路は墓参道として、之を上って毎年のお盆には市民は競ふて盆燈籠を捧げて英霊の冥福を祈った崇敬の聖地であつたのであります。
然るに昭和十九年軍市協議の下に全墓標を取り除きこれを合同墓碑に奉安合祀うるに決し、墓石は現在の再建墓地附近に掘った壕に埋め遺骨も堀起して仮納骨堂に収納することになつたのでありますが工事半ばにして原爆と終戦になりましたため墓石の或ものは壕を充たした土饅頭下に或るものは地上に折られ砕かれたままとなり、遺骨も亦数次の颱風のため倒れた仮納骨堂の周辺に散乱し、原爆の灰と共に十数年間放置されたのであります。
英霊ために天に泣き地に哭しその惨状誠に目の覆ふものがあつたのであります。
このとき大正十四年以来陸軍墓地を守つた岩田日出子女史(現在八十五歳)は、故立石吾一氏、村田安弘氏等と再建の誓を堅め、昭和三十年より五年の永きに亘り寝食を忘れて広く浄戝の寄進を求め、昭和三十五年終に現在の墓地を再建し再び英霊が安住する聖地としたのであります。
四千五百余の重い墓石を掘越し、一基二千貫に及ふ大合同墓碑の建直しや、数多き折れた墓石の組合せ、洗い清めての墨入出生地を拾つての県別整置と遺骨を集めての合同納骨墓名簿の作製等、その労苦誠に筆舌に尽くし難く、聞くだに自ら頭の垂れるを覚ゆるのであります。
私共は此再建なつた比治山陸軍墓地を参拝する毎に、敬虔心新たに常人のなし得ない此偉業を成し遂げた上記の方々と多額の浄財を寄進された同憂の士に対し英霊に伍して衷心から謝意を表すると共に今爾大戦の敗戦で受けた体験から此墓地に眠る多くの英霊が命を捧げた日清、日露の役に若し勝敗その所を異にしたら我國の存立は、どうなつたてあろうかが思い出され、此墓地を末永く英霊が安住する聖地とし、ひたすらに勲をたたへて静かにその冥福を祈ることが世界平和に立ち上がつた広島市民の責務であり、悠久日本の平和と隆昌を期し得る途であると信ずるものであります。
ああ再び天譴を受くる勿れ!! 私共はかく思いかく誡め、毎日行う焼香、供花、清掃、今尚英霊の瞼に焼きついている日の丸掲揚の勤行と、毎月十日の月並法要、春秋二季の大法要を永遠に継続することを誓うものであります。
本墓地の最奥には日清戦役、北清事変、日独戦争に於て広島陸軍病院に入院中死亡された清國、仏國、独逸兵の墓地が昔ながら現存し法要を共にして居りますが、大正十四年以来之が清掃保全に努力された岩田日出子女史の清掃奉仕会方々に対しても心からの感謝を捧げると共に、此真心が東亜各地の原地の人々にも通じて異郷に眠る多くの我同胞のお墓を暖かく見守って戴くことをお祈つて已まないのであります。
終りに臨み毎年三月十日、広島市長が英霊のために丁寧な慰霊祭を行つて下さることを特記し、遺族の方々と共に謹んで感謝の御礼を申上げるものであります。
尚本墓地の墓名簿は県別に原籍、氏名、命日、戦病死地及墓石の位置を記録して保管してありますから、御用のお方は当協賛会事務所にお問合せください。

昭和三十九年四月十日

比治山陸軍墓地保存協賛会
比治山陸軍墓地 日清戦争の陸軍々人合葬墓
比治山陸軍墓地 日清戦争の陸軍々人合葬墓
◆この陸軍々人合葬墓の裏には「喇叭手 木口小平を偲ぶ」と記された説明板がある。
日清戦争の緒戦、成歓の戦いで戦死したがその勇敢なる最期は戦前の国定教科書に載せられ「キグチコヘイハテキノタマニアタリマシタガ シンデモラッパヲクチヨリハナシマセンデシタ」として世人に知られた人物である。
この碑のどこかに其の名が記されていたのであろうが、時間が無かった為確認することが出来なかった。

〜比治山陸軍墓地の個人墓〜
◆比治山陸軍墓地内に入ると両サイドに整然と隙間なく個人墓が並べられている。
兵卒の墓等が出身地別に並べられており、最も奥に並んでいるのが将校の墓となっている。
ほんのわずかな隙間しかなく、これらの墓石から墓碑銘を見て経歴を調べるのは難しいだろう。
ともかく、この陸軍墓地に眠る方々の事を少しずつではあるが調べていく事にしよう。
墓参に行く方が、これら軍人の事を知ることでより感謝や尊敬の気持ちを強くして墓石の前で手を合わせる事が出来るよう一助となれば幸いである。
比治山陸軍墓地 将校個人墓
比治山陸軍墓地 将校個人墓 写真@

陸軍歩兵大佐 鵜澤総司

◆写真の向かって右端に見える墓石が「陸軍歩兵大佐 正六位勲五等功五級 鵜澤総司墓」である。
千葉県出身の鵜澤大佐は日露戦争の沙河会戦に於いて戦死を遂げた驍将である。
経歴等は既に都道府県別軍人で記しているのでそちらを参考にして頂きたい。(鵜澤総司の経歴へ
ちなみに、文献に記されていた位階は従五位であったが墓石には正六位となっているが…

陸軍歩兵少佐 小島鎰三郎

小島鎰三郎 墓
小島鎰三郎 墓

◆並べられた将校墓石の後列の端にあったので撮影できたのは「陸軍歩兵少佐 正六位勲四等功四級 小島鎰三郎墓」であった。
小島鎰三郎については全国軍人データの出身地岡山県に伝をたてたのでそちらを参考にしてほしい。(小島鎰三郎の経歴へ

陸軍歩兵大尉 渡邊右一

渡邊右一 肖像
渡邊右一 肖像
渡邊右一 墓
渡邊右一 墓
氏名
渡邊右一(わたなべ ういち)
最終階級
陸軍歩兵大尉 正七位勲五等功四級
生没年
?〜1905年3月1日
?〜明治38年3月1日

≪経歴≫
山口県都濃郡徳山町 士族にして歩兵第11連隊に属し北清事変に出征、勲六等功五級を賜る。
日露戦争に出征し奉天会戦に於いて戦死する。
勲五等功四級に叙し双光旭日章を賜う。

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