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石川県出身陸軍々人 弐

旅順攻囲戦 海鼠山奪取の偉勲者
寺田錫類 氏名
寺田錫類(てらだ しゃくるい)

最終階級
陸軍歩兵大佐 正五位勲三等功四級
生没年
1853年〜1905年6月2日
嘉永6年〜明治38年6月2日
<草創期 歩兵>

■経歴
石川県金沢市彦三七番町 金澤藩士 寺田正明と五百子の三男にして幼名を順之助と称し、後に錫類と改めた。
明治3年 大坂兵学寮に入り5年3月 少尉心得、7年5月 少尉に任じ大坂鎮台歩兵第8連隊附に補せらる。
8年 叙正八位、前原一誠の萩の乱に従軍し10年7月 中尉に進み西南戦争にも出征する。
12年頃 勲六等、13年頃 従七位に叙し15年より歩兵第7連隊第2大隊小隊長、18年 大尉に進み叙正七位。
■日清戦争での奮戦
19年5月 勲五等、21年頃 歩兵第18連隊第2大隊中隊長に補し、日清戦争では佐藤正の率いる元山支隊に属し転戦。
平壌攻撃前、佐藤より順安の兵站守備の任を与えられ一個中隊を率いてこれにあたり、平壌の敗兵が2000余りを以て順安に押し寄せた際にはわずか一個中隊で奮戦し自らも太刀を奮い撃退した。
戦闘後振るった太刀を見ると鍔元を僅かに残すのみで折れてしまっていたと云う、戦功により功五級に叙す。
30年10月 少佐に進級し勲三等に、次いで36年6月 従五位に叙せらる。
■日露戦争での武勇
日露戦争には最初南山攻撃に参加し、祖先伝来の名刀を振るい奮闘し頭部を負傷するが頭に包帯を巻いたままその後も陣頭で指揮を続けた。 その後、水師営、干大山に戦い中佐に進み歩兵第1連隊長に補し旅順攻囲軍に加わる。
攻囲戦では海鼠山、174高地の奪取を砲弾弾雨の中強襲により占領に貢献し、特に海鼠山の突撃は外国人観戦武官をして感嘆さしめ、その武勇は諸将中の筆頭者と讃えられた。
しかし、203高地の戦いで胸部に二個の銃創を受け内地に送還となり自宅に療養中の38年6月逝去した。
享年53歳、この日大佐に進み特旨を以て正五位功四級に叙し旭日中綬章を賜う。
妻 美野子、一男五女あり長男正雄は騎兵将校となった。


☆錫類は戦に出るやまず日本刀を抜いて正面に立てて合掌し身を正して祈祷することを常とした。
☆日清戦争での順安での戦いで名刀と疑わなかった刀が脆くも折れてしまった。その後は余程その辺に注意して、今度は祖先伝来の一番大事な名刀を軍刀に拵え南山の戦いで大いに活躍したと云う。

参考書籍著者出版社
征露戦報実業之日本社
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
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