■経歴
薩摩國鹿児島郡花尾小路(現:鹿児島県鹿児島市)に誕生し有馬純晴の嗣子となる。
幼少時には黒田清隆に就いて学び、鹿児島聖堂に入学の後16歳の時薩摩藩兵となり2年後には戊辰戦争に3番小隊に属して出征し各地を転戦する。
明治4年9月海軍兵学寮にはいり7年10月実地研究の為「筑波」乗組、海軍少尉補を命ぜられ11月台湾征討として戦地に回艦した。
西南戦争に於いても「筑波」乗組として九州各地を回艦し5月には海軍少尉に任ぜられた。
11年5月「金剛」乗組、12月海軍中尉、14年12月には海軍大尉と昇進を重ねた。
以来各国に回航し17年12月「筑波」砲術長、18年8月「摂津」副長、19年1月「扶桑」副長心得に次いで海軍少佐に進み同艦副長に就任した。
20年4月士官学術検査委員となり5月艦隊戦闘方法演習取調委員を命ぜられ7月「天城」艦長、更に「武蔵」艦長心得を命ぜられる。
22年5月海軍兵学校運用術教官兼「天龍」艦長心得を仰せつけられ翌年海軍参謀本部第二課長心得兼海軍技術会議議員並びに東京軍法会議判士長を務め海軍大佐に昇進する。
鉄道会議議員、佐世保海兵団長を経て26年9月「金剛」艦長に就任、27年ハワイの居留民保護の為ホノルル港停泊中に日清開戦の報を受ける。
西海艦隊に編入され相浦紀道司令官の座乗する旗艦として出征、陸軍の護送及び援護の任に就き大連湾、旅順口の占領に貢献し、12月「厳島」艦長に転じ威海衛の戦いに参戦し功を立てた。
収容軍艦「鎮遠」回航委員長を経て28年7月「橋立」艦長、12月「鎮遠」艤装員長を務め、翌年7月「八島」回航委員長及び同艦艦長を歴任。
30年12月海軍少将に昇任し竹敷要港部司令官に就任。31年5月横須賀鎮守府司令官、翌年に同鎮守府艦隊司令官、33年5月常備艦隊司令官、34年7月艦政本部長を務め35年5月には海軍中将に昇った。
日露戦争時には海軍教育本部長の職にあり、その後38年2月呉鎮守府司令長官を務めた。
39年2月佐世保鎮守府司令長官となり11月には第一艦隊司令長官に転任し以後は再度の海軍教育本部長、佐世保鎮守府司令長官を務め42年12月1日将官会議議員となるがそのわずか5日後に逝去した。
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