home > 都道府県別軍人 > 鹿児島県

鹿児島県出身海軍軍人

日清戦争「厳島」艦長として威海衛攻略に貢献
有馬新一 氏名
有馬新一(ありま しんいち)

最終階級
海軍中将 従三位勲一等功二級 男爵
生没年
1851年2月26日〜1909年12月6日
嘉永4年1月26日〜明治42年12月6日
<海兵二期>

■経歴
薩摩國鹿児島郡花尾小路(現:鹿児島県鹿児島市)に誕生し有馬純晴の嗣子となる。
幼少時には黒田清隆に就いて学び、鹿児島聖堂に入学の後16歳の時薩摩藩兵となり2年後には戊辰戦争に3番小隊に属して出征し各地を転戦する。
明治4年9月海軍兵学寮にはいり7年10月実地研究の為「筑波」乗組、海軍少尉補を命ぜられ11月台湾征討として戦地に回艦した。
西南戦争に於いても「筑波」乗組として九州各地を回艦し5月には海軍少尉に任ぜられた。
11年5月「金剛」乗組、12月海軍中尉、14年12月には海軍大尉と昇進を重ねた。
以来各国に回航し17年12月「筑波」砲術長、18年8月「摂津」副長、19年1月「扶桑」副長心得に次いで海軍少佐に進み同艦副長に就任した。
20年4月士官学術検査委員となり5月艦隊戦闘方法演習取調委員を命ぜられ7月「天城」艦長、更に「武蔵」艦長心得を命ぜられる。
22年5月海軍兵学校運用術教官兼「天龍」艦長心得を仰せつけられ翌年海軍参謀本部第二課長心得兼海軍技術会議議員並びに東京軍法会議判士長を務め海軍大佐に昇進する。
鉄道会議議員、佐世保海兵団長を経て26年9月「金剛」艦長に就任、27年ハワイの居留民保護の為ホノルル港停泊中に日清開戦の報を受ける。
西海艦隊に編入され相浦紀道司令官の座乗する旗艦として出征、陸軍の護送及び援護の任に就き大連湾、旅順口の占領に貢献し、12月「厳島」艦長に転じ威海衛の戦いに参戦し功を立てた。
収容軍艦「鎮遠」回航委員長を経て28年7月「橋立」艦長、12月「鎮遠」艤装員長を務め、翌年7月「八島」回航委員長及び同艦艦長を歴任。
30年12月海軍少将に昇任し竹敷要港部司令官に就任。31年5月横須賀鎮守府司令官、翌年に同鎮守府艦隊司令官、33年5月常備艦隊司令官、34年7月艦政本部長を務め35年5月には海軍中将に昇った。
日露戦争時には海軍教育本部長の職にあり、その後38年2月呉鎮守府司令長官を務めた。
39年2月佐世保鎮守府司令長官となり11月には第一艦隊司令長官に転任し以後は再度の海軍教育本部長、佐世保鎮守府司令長官を務め42年12月1日将官会議議員となるがそのわずか5日後に逝去した。




日露戦争 第3艦隊司令官として日本海海戦に参戦
山田彦八 氏名
山田彦八(やまだ ひこはち)

最終階級
海軍中将 正三位勲一等功三級
生没年
1855年4月15日〜1942年1月28日
安政2年2月29日〜昭和17年1月28日
<海兵五期>

■経歴
鹿児島城下平之馬場(現:鹿児島県鹿児島市平之町)に山田有庸と大久保利通の妹スマの間に誕生する。
明治4年、海軍兵学寮に入学。西南戦争が始まると「浅間艦」乗組として九州に出征する。
11年7月海軍兵学校を卒業し14年1月海軍少尉に任官。爾来累進を重ね24年にはフランスに出張し軍艦「厳島」「松島」の回航事務取扱委員を務めた。
日清戦争に従軍し末期の台湾平定にも参加、戦後「天城」艦長に就任。
30年6月海軍大佐に昇進し呉海兵団長、「須磨」艦長、「磐手」回航委員長としてイギリス出張し同艦長、佐世保鎮守府参謀長、「朝日」艦長を歴任する。
日露開戦により出征し戦役中に海軍少将に進み第三艦隊に属し第5戦隊、第7戦隊の司令官を務めた。
戦後、第一艦隊司令官、佐世保水雷団長、呉水雷団長を経て海軍中将に昇り第一艦隊司令官、竹敷要港部司令官、旅順鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官、 海軍将官会議議員を務め大正4年3月後備役編入となる。




日清戦争 「赤城」艦長、黄海海戦に散る
坂元八郎太 氏名
坂元八郎太(さかもと はちろうた)

最終階級
海軍少佐 正四位勲四等
生没年
1854年1月29日〜1894年9月17日
嘉永7年1月1日〜明治27年9月17日
<草創期>

■経歴
坂元八郎左衛門の長男として生まれる。
明治4年、海軍兵学寮に入り西南戦争に従軍後、海軍兵学校に入校し13年に海軍少尉に任官した。
以後各艦に乗組み累進、22年にウラジオストク派遣となり翌年少佐に進級。
ロシア公使館附、「吉野」副長などを経て「赤城」艦長に就任し日清戦争に出征。
黄海海戦において軍令部長だった樺山資紀の座乗する「西京丸」を清国艦隊からの集中砲火から守るために奮戦の末戦死した。

inserted by FC2 system