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大同江渡河の勇士

川崎伊勢雄 氏名
川崎伊勢雄(かわさき いせお)


最終階級
陸軍騎兵少尉 正八位 功七級

生没年
1854年〜1904年10月12日
明治6年10月14日〜明治33年10月17日

川崎騎兵少尉 経歴

日清戦役 三勇士の一人
今や地元高知でも知る人はほとんどいなくなった川崎伊勢雄は日清戦争の初期 死んでも喇叭を離さなかった白神源次郎(或いは木口小平)、玄武門に一番乗りした原田重吉らと、 大同江単身渡河で三勇士として知られ戦記、教科書などを通して永く国民に勇名を讃えられた人である。

高知県神田村に川崎源吉と津由の三男として生まれる。
後教導団を卒業の後陸軍騎兵軍曹となる。

東党の乱が起こるや朝鮮を「属国」として譲らぬ清国は朝鮮に出兵し日清の雲行きが怪しくなり日本政府も先に結ばれた天津条約に従って出兵した。
この時出兵した大島混成旅団に広島騎兵第5大隊に属す伊勢雄も動員となり朝鮮に渡り成歓の戦いに参加し功あり。 7月23日平壌方面への騎兵斥候として別働することとなった。
然るに平壌に進むには大河、大同江を渡らねばならない。

川崎軍曹 大同江渡河
折しも霧雨の候で目の前の大同江は濁流となって斥候隊の前に立ちはだかり、馬で乗り入れる者や泳いで 対岸に進もうとする者もあったが濁流の前になすすべもなかった。
これを見た伊勢雄は軍服を脱ぐや剣を口にして飛び込むや抜手を切って濁流をものともせず遂に渡りきり一息の間もなく大声と共に敵弾が雨のように降り注ぐ中、敵船を奪い無事引き揚げた。
斥候兵達はその勇気と豪胆に嘆賞したと云う。

中和の戦い
伊勢雄ら斥候隊が要地とした中和に、敵襲撃隊が来襲したのは大同江渡河の一週間後の明朝銃声と叫喚が大地を轟かせ斥候隊を襲った。
次々と敵兵に敵兵に斃されてゆく同胞の中、伊勢雄も乗っていた馬が被弾し落馬、片足は馬の下敷きとなり立つこともできず腰の拳銃で応戦しもはや最期と思われた時敵兵は退き九死に一生を得た。
後、大島旅団長は平壌攻撃に向かう途上この中和に立ち寄り墓表を追悼すると共に伊勢雄ら斥候の功績を讃えた。

陣中27年11月武勲により騎兵一等軍曹に任ぜられ各地を転戦し、凱旋後戦功により功七級金鵄勲章を賜る。 明治29年には騎兵曹長に進み翌30年、予備役編入となる。 陸軍技手に任ぜられ陸軍軍馬補充部三本木支部に赴任し明治31年には騎兵少尉に進級。
明治33年10月17日、食事が中毒し若き勇者はこの世を去った。
享年29歳。
三本木理念寺で葬儀が行われ遺骨は郷里に葬られた。

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