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戊辰の役の驍将

北村重頼 氏名
北村重頼(きたむら しげより)


最終階級
陸軍中佐 正六位

生没年
1845年〜1878年3月2日
弘化2年〜明治11年3月2日

草創期
北村中佐 経歴

戊辰戦争
通称 北村長兵衛は高知市潮江に土佐藩士 馬廻二百石 北村五平と池田氏の子として誕生する。
明治元年正月、京に於いて御門守衛の任にあり砲隊長を勤めていた重頼は鳥羽伏見の戦いの報を知るや山地忠七、二川元助、吉松速之助、山田喜久馬らと共に参戦し土佐藩維新の魁となった。
これにより佐幕、討幕と依然釈然としない藩論を討幕に舵をとらせたのはまさに重頼等の働きによるものであった。
東征には板垣退助率いる迅衝隊 砲隊長として甲州勝沼の戦いを皮切りに会津戦争に至るまで常に最前線で各地を転戦し戊辰戦争最初から最後まで遂に微傷も負わず戦い抜いた。
凱旋後、格式中老に進み禄二百石を下賜せらる。
御親兵砲兵大隊長
維新後、高知の銃器買い上げに尽力し、勤王の士を募り中立社を設立するなどした。
明治4年の薩長土三藩の兵を献じ御親兵と成すや重頼は砲兵大隊長(もう一人の砲兵大隊長には村田新八)となり陸軍少佐に任じ帝国陸軍砲兵の先駆となり翌5年には中佐に進む。
この頃、征韓論が朝廷に於いて俄かに熱を帯び西郷隆盛や板垣退助をはじめ諸参議と論じ薩土両藩より有為の人材を満州、韓国各地の視察に送る事が決まり満州には池上四郎、武市熊吉、そして朝鮮には重頼と別府晋助が派遣される事となった。
朝鮮に渡り地形政治兵備財政風俗等を視察し帰朝するも征韓は遂に成らず板垣等土佐の征韓と共に下野する事となる。
高知鎮撫に派遣
下野後、山内容堂の墓前に集い共に下野した土佐将校等と共に「海南義社」(立志社の前身)を結成するなどするも、重頼の武人としての才を惜しむ谷干城の助けもあり再び陸軍に復職する。
10年 西南戦争が始まると故郷の高知でも挙兵計画など不穏の気配あり、佐々木高行等と共に帰高し林有造等の兵器弾薬を押収するなど鎮撫に務めるも34歳にして故郷高知で病没する。
元来多病であり、幾度も死に瀕するも屈っしなかったが遂に不帰の人となり皆其の死を惜しんだ。
長命であれば谷干城、山地元治らと共に陸軍の重鎮として重きを成したであろう人物であった。
高知市皿ヶ峰にある重頼の墓には谷干城撰文の墓碑銘が記されている。


参考資料
書籍名著者出版社
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
子爵谷干城伝平尾道雄冨山房
迅衝隊出陣展中岡慎太郎館中岡慎太郎館
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
土佐藩戊辰戦争資料集成林英夫高知市民図書館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
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