home > 軍人史跡 > 久万山

軍人史跡 久万山

陸軍砲兵少佐 北川柳造墓所

北川柳造墓
北川柳造墓
所在地:高知県高知市西久万 久万山

北川柳造墓所全景
北川柳造墓所全景
◆幕末、土佐藩の重鎮として活躍した福岡宮内の墓所が西久万にあるがこの墓所から少し登った場所に斜面をコンクリートで固める際にその墓域の為に残されたかのような空間がある。
この空間に数基並ぶ墓石の一つが「陸軍砲兵少佐従五位勲四等北川柳造」の墓である。
この北川柳造は戊辰戦争、西南戦争に出征し後に横浜連隊区司令官、宇都宮連隊区司令官を歴任。 墓碑にはその後日露戦争に鴨緑江軍兵站司令官として出征するが清国二河子で病没した事が記されている。

陸軍少将 野島丹蔵祖先之墓

野島丹蔵祖先之墓
野島氏祖先之墓
野島丹蔵祖先之墓
名前上の文字は何と読むのだろう?

◆顕彰活動として久々の墓参に訪れた久万山。
北川柳造の墓より墓参道を頂上付近までのぼった辺りの茂みの中に一基の墓が目についた。
下の方が土に埋もれてしまったその墓に記された「野島氏」の文字にピンときた管理人は周囲の草や枝をかき分け墓にに近づいてみた。
側面には思った通り「丹蔵 虎猪 建」と記されていた。
この野島丹蔵なる人物も、陸軍草創期からの軍人で歩兵第45連隊々長などを勤め陸軍少将まで昇った人である。

谷干城邸跡・墓所

谷干城邸跡碑
谷干城邸跡碑 谷干城墓
谷干城墓

所在地:高知県高知市中久万 久万山
◆久万山の麓には谷干城邸がある。
以前に訪れた時は「谷干城墓所」と記された看板が道沿いにあったのだが折れてゴミ集積所の隣に立てかけられていた。
そこからすぐ背後の階段を上ると「谷干城先生邸跡」の碑が民家の門前に現れる、民家の敷地内には古い蔵らしき建物もあり当時からのものか?と想像が勝手に膨らむ。
そこから山道を道なりに進んでいくと現れるのが複数の川原石の墓石。
その一番手前にある最も大きな物が谷干城と妻玖満子の墓石である。
谷干城墓所
谷干城墓所
谷家では代々自然石の墓石となっているのだそうでこの巨大な墓石は谷を慕う青年団によってこの場所まで担がれたと云う。
西南戦争では熊本鎮台司令官として玖満子と共に籠城し勇名を馳せ草創期陸軍の重鎮として、また後に気骨の政治家として明治日本を導いた男が一族と共に静かに眠っている。
背後には父の景井や養子(同族の谷重喜の弟)乙猪の墓などが並んでいる。
ちなみに谷乙猪の長子谷儀一も陸軍少将にまで進んでいるが墓はこの谷家の墓所には無い。

谷家墓所全景
谷家墓所全景
谷乙猪墓
谷乙猪墓
谷景井墓
谷景井墓

海軍中将 小松直幹墓所

谷干城墓所の西側に広がる墓所の上方には「海軍中将小松直幹」の墓所がある。
墓石には中将の経歴等は何も記されておらず、ただ「昭和七年九月十二日卒」と刻まれているのみである。

小松直幹は明治8年7月に高知に生まれ北清事変、日露戦争、第一次世界大戦に従軍した将軍で「対馬」「伊吹」「常盤」各艦長や第三艦隊参謀長、呉鎮守府参謀長などを歴任。
その後に転任した霞ヶ浦航空隊司令官の時には副官には軍人としては高名な一人である山本五十六がいた。
14年に海軍中将に任ぜられている。

中将以外にも一族様の墓が並んでいた、情報が集まれば「土佐軍人列伝」の方にも加える予定です。

小松直幹墓
小松直幹墓

陸軍歩兵大佐 岡崎徳熊墓所

岡崎徳熊墓
岡崎徳熊墓
所在地:高知県高知市西久万 久万山山中

岡崎徳熊墓所全景
岡崎徳熊墓所全景
谷干城墓所の裏側にある山道を東に向かって歩いて行くと右手に古い墓石が現れ始めるのだがこの最も高い位置に現れる墓所の中に「陸軍歩兵大佐 正五位勲三等功五級 岡崎徳熊墓」と記された墓石を発見した。
この岡崎徳熊大佐について詳しくは知らなかったが墓碑銘によれば
明治16年9月14日岡崎実桃四の次男として高知市に生まれ明治37年歩兵少尉に任官し日露戦争、シベリア出兵に従軍し功五級金鵄勲章を賜う。
昭和6年歩兵大佐に進み同8年退役した事が記されている。
前方には父の実桃四の墓や先祖に当たる人物か岡崎満起の墓などがあり、この満起なる人物の墓碑銘は漢文で記されており素養のない私には解読できないが「山内氏」「徒目附」「徒士頭」などが見られるのでそのような役職の土佐藩士だったのではと…

海軍機関大佐 山崎雅雄墓所

山崎雅雄墓
山崎雅雄墓
所在地:高知県高知市西久万 久万山山中

山崎雅墓
山崎雅墓
◆「岡崎徳熊墓所」から更に山道を道なりに進むと右手上方に石灯篭のある立派な墓石が目に入った。
行ってみると「山崎雅墓」と記され墓碑銘を見てみたが、これも漢文の為「岡崎徳熊墓所」の記事でも述べたように現代文に訳す事が出来ないのが残念だが「巡査」や「大坂府警部」などの文字が見られるので警察官であったのだろう。
その隣の墓石をよく見ると上の文字が薄れて最初は気付かなかったが「海軍機関大佐正五位勲三等山崎雅雄夫婦墓」と刻まれている。 雅雄は雅の子で昭和七年三月四日に没している。
墓石からはそれ以上は分からないが墓所隅に「山地正基記念碑」なるものが建てられており裏の碑文は雅雄によるもので山地正基は雅雄の伯父に当る人物で幼時に父の雅が没して後この伯父の庇護を受けた。
山地正基記念碑 山地正基記念碑裏 今日があるのは伯父のおかげであり大正十四年六月五日に七十九歳で病没するも「追慕ノ念益々禁ズルニ能ワズ此ノ碑ヲ建テテ其ノ恩愛ヲ記念ス 昭和三年六月五日 雅雄謹記」と記されている。

陸軍歩兵大尉 五藤正誼墓所

五藤正誼墓
陸軍歩兵大尉 正七位 五藤正誼墓

◆山崎雅雄墓所の裏上方には「故陸軍大尉五藤正誼墓」がある。
この五藤大尉、明治4年の官員録(兵部省)に大尉として既にその名を見る事ができる。
各面にはその経歴などが刻まれており、何とかほんの少しだが解読できた部分を記してみると。
墓は遺髪墓であり、姉の夫は宮地貞香であることがわかる。
宮地貞香は海軍少将宮地貞辰の伯父あるいは叔父にあたる人物であり貞辰とは遠戚と云うことになる。
通称を競弼と云い父晃作、母西村氏。
戊辰戦争に鋭衝隊々長として従軍、明治4年陸軍大尉として政府に出仕し明治7年正七位に叙せられ大坂鎮台附などを経て西南戦争に出征。
征討第2旅団歩兵第9連隊第1大隊第1中隊長として各地を転戦するも10年3月9日肥後國山本郡田原二俣で戦死する。
五藤晃作墓
正誼墓の隣には父五藤晃作墓のみが建っている。

陸軍歩兵大尉 小松保衛墓所

小松保衛
小松保衛 肖像
小松保衛(こまつ やすえ)
{最終階級}陸軍歩兵大尉 正七位勲六等功五級
{生没年}?〜明治37年8月24日 


≪小松保衛 略歴≫ 保衛は土佐郡初月村久万士族、父は小松章造、母松本氏の二子である。
陸軍幼年学校に入り次いで陸軍士官学校に学び明治31年歩兵少尉に任じ高知歩兵第44連隊小隊長に補せらる。
33年歩兵中尉に進み翌年戸山学校に入校、戦術学を研究する。
日露戦争開戦により第11師団に参じ乱泥橋、大石洞、龍頭に転戦し殊功あり第2大隊副官に補せらる。
旅順攻撃軍に加わり東鶏冠山突撃の後、盤龍山に一隊を率いて突撃し戦死した。
即日歩兵大尉に進め勲六等單光旭日章、功五級金鵄勲章を授けらる。
明年郷里の久万山墓地に遺物を葬り其の墓を表す。
【寺石正路著「土佐偉人傳」より】
小松保衛墓
小松保衛墓

◆寺石正路著「土佐偉人傳」の中の武門偉勲者の中でこの小松保衛の事が記されている。
高知の軍人墓ではほとんど見られない神道式の矛型の墓石である。
場所は中久万天満宮から登った山頂付近にある。

陸軍歩兵大尉 松本徳直墓所

松本徳直墓
陸軍歩兵大尉 松本徳直墓
松本徳直墓
側面 友人渡邉國武より
松本徳直墓
裏面にも小山正武 小澤豁郎より

◆小松保衛墓所のすぐ隣に目をやると竹に寄りかかり今にも崩れ落ちそうになっている墓石がある。
「陸軍歩兵大尉 従六位勲六等功五級 松本徳直墓」墓石からは明治30年5月11日台湾土匪征伐中に病の為に38歳で没した事が記されている。
さらに側面には漢詩が彫られ「友人 正三位勲一等子爵 渡邉國武」とある。
渡邉國武は伊藤博文総理の下で大蔵大臣、逓信大臣を歴任した人物で西南戦争前後の頃には高知県令も勤めている。
さらに裏面には小山正武、小澤豁郎などの名も見られ察するに徳直も東邦協会{Wikipediaへ}(興亜会に次ぐ本格的なアジア主義団体)のメンバーであったのかもしれない。 周囲には竹がかなり伸びてきており一族の墓もあるが古いものばかりである。

≪松本徳直 略歴≫
高知県士族にして明治の後少尉に任じ、15年歩兵第10連隊第2大隊小隊長に転じ18年中尉に昇る。
21年頃歩兵第19連隊小隊長たり30年5月11日没す特旨を以て従六位に進めらる。
【大植四郎編著「明治過去帳」参考】

北村重頼一族墓所

北村重頼一族墓所
北村重頼一族墓所

◆この久万山には筆山に眠る北村重頼の両親等の墓所がある。
上の写真の数基ある墓、一番奥に見えるのが父北村五平(墓石側面には「重頼父」と記されている)、その隣が母池田氏松の墓。
更に隣の二基については片方は五平末女、もう一方は北村重久とあるが名前、没年のみで詳しい事はわからない。

北村五平墓
北村五平墓

一番手前に見える墓は「北村重孝墓」とありその裏側には「高知縣士族 北村五平二男」、側面は「東京葬於谷中 天王寺故趾」と記されている。
明治11年に19歳で没しており、明治10年に没した重頼が34歳なので重頼がやはり長男であると思われる。(ちなみに父五平は明治6年に59歳で没、2人の息子が世を去るわずか4、5年前)

長男の重頼がなぜ筆山に葬られたのか?あるいは墓石に記された文をみればわかるのかも知れないが何度も云うように漢文の素養がないもので…
今後、漢文も身につけ調査をしていきたいと思います。

北村重孝墓
北村重孝墓
北村重孝墓裏
北村重孝墓裏側
inserted by FC2 system