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日本騎兵の開祖

森岡正元 氏名
森岡正元(もりおか まさもと)


最終階級
陸軍少将 正五位勲二等

生没年
1850年11月26日〜1924年11月29日
嘉永3年10月23日〜大正14年11月29日

草創期 騎兵
森岡陸軍少将 経歴


日本騎兵の開祖とも云われる森岡将軍は、はじめ大高坂正元と名乗り戊辰戦争に出征し会津では越後口を攻め功を立て維新大成に貢献した。
明治の初年に土佐藩が軍備強化に乗り出した際にフランス人アントワンを召し洋式馬術の訓練を始めたが、このアントワンに師事し馬術を極めたのが森岡であった。
明治4年、御親兵の創設となるや土佐藩より歩砲騎工の四科兵を献上したのであるがこの時に騎兵を率いたのが諏訪重中と森岡でありこれが日本騎兵の母体となった。
これより森岡の騎兵発展の苦難が始まる。

建軍当初より世界の軍事状況は乗馬戦から火力戦争の時代となっており、また日本においても徳川幕府時代も騎兵に関してほとんど見るものなく国民一般も感心薄かった事など、 騎兵の発展には種々の困難があった。
明治6年の鎮代設置から同19年の鎮台の師団改正を経ての22年から25年の間にようやく各師団に騎兵隊が設置されるまで実に建軍から約20年も近衛と東京に2大隊しか騎兵が設置されてなかった事からも見てとれる。
御親兵 陸軍曹長として出仕するや自ら洋式馬術の普及、訓練に努め5年にはその実力を認められ明治天皇の馬術御指南役として宮内省出仕を仰せつけられた。
6年、少尉に進み近衛騎兵隊附となるが明治天皇の信任厚く御側で武技御教導の大任も続けている。
9年に東京鎮台騎兵第1大隊附、翌年の西南戦争には第3旅団本営附、伝令吏として働き9月に中尉となり戦役を終えた。
西南戦争でも騎兵は警衛、伝令程度にしか見られていなかった為に近衛、東京の両騎兵大隊が出動したにも関わらず活躍の場を得なかった。


明治13年に騎兵第1大隊副官、14年近衛騎兵中隊小隊長、15年には大尉に進み教導団騎兵中隊長となり以降も 陸軍士官学校教官、参謀本部局員など歴任し18年6月から19年1月まで山縣有朋に随行し欧州を視察している。
帰朝後より騎兵の編成装備の改革に首脳先覚者としてその計画実行にあたり、また騎兵の陣中軌典草案委員として騎兵教育の統制、戦術上の軌範の確立に尽力し、 その間に近衛師団参謀、21年少佐に進級し陸軍乗馬学校教官を務め22年に設置が叶った騎兵第4大隊長に就任後25年に中佐に進んだ。
この年遂に各師団に騎兵隊が増設された。
森岡はかつては警衛、伝令と言われる程軽視された騎兵を戦術的能力を有するものまでに育てあげ日本騎兵の基礎を確立したのである。


日清戦争の後、明治31年に騎兵大佐になると同時に騎兵第五連隊長となり33年に起こった北清事変に出した。 連合軍では各国騎兵隊長中最先任者であった森岡が連合軍騎兵指揮官となり卓越した指揮統帥と毅然たる風格で列国軍中に重きをなした。
34年に騎兵第16連隊長に就任。
35年12月に一時休職するが翌年日露戦争が始まると留守騎兵第1旅団長、第2旅団長や習志野俘虜収容所長などを 兼務している。
39年に陸軍少将に進み後備役に編入された。
娘は騎兵科出身の陸軍大将 鈴木荘六、陸軍中将 森岡守正にそれぞれ嫁いだ。

建軍より三十数年終始一貫、騎兵の発展の為に馬術の普及、基礎の確立に始まり騎兵の創設、軍馬の改良に自ら計画実行に苦心没頭した。 その偉大な功績から後進達からは騎兵と云えば森岡と連想される程であった。
騎兵の開祖と云われた森岡は大正14年11月に千葉県船橋町の自宅で逝去。
66歳頃まで馬に乗り続け晩年は畑いじりに日をすごしていたと云う、享年74歳。
その功績は「騎兵の父」秋山好古と共にもっと世に知られても良いのではないだろうか。


参考資料
書籍名著者出版社
大正過去長 物故人名辞典稲村徹元ほか東京美術
日本騎兵史 上巻佐久間亮三 平井卯輔原書房
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
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