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古美術を愛した陸軍大佐

長屋重名 氏名
長屋重名(ながや しげな)


最終階級
陸軍歩兵大佐 正五位勲四等

生没年
1844年〜1915年1月31日
弘化元年〜大正4年1月31日

草創期 歩兵
長屋歩兵大佐 経歴


国沢才助の三男にして後 長屋助五郎の養子となる、通称孫四郎、諱を重忠。
高知城西中須賀村に住し山内家に代々上士として仕えた。

文久元年3月4日に起こった井口事件で上士の山田広衛、益永繁斎が節句帰りに郷士の中平忠次郎と口論となり山田は抜刀して忠次郎を斬った。
同行者の宇賀喜久馬は忠次郎の兄の池田虎之進に知らせ現場に急行した虎之進は山田と益永を斬り忠次郎の亡骸を運ぼうとしたが、北奉公人町の荒尾忠意邸からの帰路に現場に現れたのが諏訪助左衛門(重中)と長屋孫四郎こと重名であった。
重名ら二人は藩法(変死者ある時はみだりに死体を動かさず検死を受くべきとの定めがあった)に反する虎之進を咎め、死体を元の場所に戻さしめその素性を明らかにし、この夜の厳粛なる措置が認められた。


戊辰戦争には明治元年7月より土佐藩折衝隊第7番隊長として東征に参加し会津若松攻めでは背面を衝き諸路で会津兵を破り戦功をあげた。
明治4年の御親兵の創設にともない陸軍少佐に任官し同7年9月に名古屋鎮台参謀長に任命された。
9年7月に兼任で名古屋衛戍司令官に就任し西南戦争では後方の守りを担った。
11年12月には仙台鎮台参謀長に補され12年3月には大佐に進級し14年まで勤めたが、同年1月に休職し16年6月に予備役編入となった。
これについて日本刀講座では「趣味の豊富な為に累を為して陸軍大佐で退職するの止むなきに至った」とあり重名の多趣味ぶりが窺える。


退官後は風俗戯画に長じ鉄網珊瑚の号で知られた、また古美術品を愛しその鑑識に定評あり。
明治5年頃熊本鎮台に在任の時、世は変革の時にあり古物を破壊する事著しく名高い肥後鍔(刀鍔)も市場に投げ売りされた。
これを悉く購入し鑑別して収蔵し古美術保存の風再興し、その金工の事績を探り「肥後金工録」を著す。
肥後鍔の鑑識重名に及ぶものなく後収蔵品は旧藩主山内侯爵家に献上した、他著書に山内一豊夫人を記した「かゞみ草」などあり。
晩年は京都や東京に住み大正4年1月72歳にして没する。
子に法学博士 長屋権太郎、書家 長屋秋香がいる。


参考資料
書籍名著者出版社
絵入訓話大町桂月富山房
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
大正過去長 物故人名辞典稲村徹元ほか東京美術
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
日本刀講座 別巻の2小倉惣右衛門雄山閣
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
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