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軍人史跡 南国市

陸軍歩兵中佐 大原里賢ゆかりの地・墓所

下田村戦病死者埋葬地 寄付主大原里賢
寄付主として大原里賢の名が記された碑
千屋城跡と戦病死者埋葬墓地
千屋城跡と赤レンガの中が戦病死者埋葬墓地
明治4年の官員録(兵部省)に陸軍大尉 大原利賢(里賢)とその名が見られる帝国陸軍創設からの功労者、その足跡の残された地が南国市高地龍馬空港の滑走路南側の前浜下田にある。
空港の滑走路下を抜ける31号線と32号線の交差する場所に南国市史跡「千屋城跡」がある。
この場所にある「戦病死者埋葬墓地」この土地は大原里賢が寄付主となり提供したもので、墓地の一角にその名の記された石碑が建っている。
野見嶺南墓所の大原里賢の碑
野見嶺南墓所にある大原里賢の碑
野見嶺南墓所
野見嶺南墓所
「千屋城跡」のすぐ南には野見嶺南なる人物の墓所がありここにも大原里賢の碑がある。
碑はおそらく旧野見邸周辺の土地を大原里賢が寄付したと云う内容ではないだろうか。
墓所に建てられた説明板には「野見嶺南は南学系の学者で和漢の学に通じ、現下田村公民館のあたりで医業の傍ら門弟の指導にあたっていた。著書も多く「大港図記」は特に有名である。」とある。
大原里賢先榮之地
大原里賢先榮之地
「千屋城跡」からすぐ北東の畑の真ん中に古い墓が数基建っているのが見えるが、これは大原里賢一族の墓所である。
以下の大原里賢の一族の略歴は<浜田善三郎著・土佐日記の大港に関する私考ならびにわが古里の大湊と徒然の記>を参考にさせてもらった。
<大原里歳>
通称を只蔵と云って野見嶺南邸近くの郷士の家に生まれ嶺南の塾に入り学問を積んだ人。
仁慈に深く徳行に厚くその行いが藩庁の目にとまり、ある時は褒章状を、またある時は褒美金をと再三表彰を受けた。
野見嶺南没後はその後を継ぎ大原塾を開きその子弟は数百人と云われる。
天保7年9月21日卒 享年七十八歳。
大原里歳墓
大原里歳(只蔵)の墓
<大原里勝>
里歳の長男で通称を貞四郎、号を可水と称した。
父の教えを受け里歳と同じく仁慈に富み、きわめて篤学の人で藩庁から再三の褒賞を授与された。
文政6年医術修業の為に京都に上り、嘉永7年には前浜村海岸の台場係り海防小頭や久枝台場係りなどを勤め藩庁より重用された。 また父と同じく子弟教育に力を入れ、その数は三百人に上ったと云われる。 慶應元年9月7日病没 享年六十歳。墓碑銘は里賢によるものである。
大原里勝墓
大原里勝(貞四郎)の墓
大原里賢墓
大原里賢の墓
これら「千屋城跡」付近の史跡から西に向かうと広い広域農道にでるがこの道沿いに少し北に向かうと墓地が現れる。
山越墓地と云うらしいがこの墓の中に埋もれるように「陸軍歩兵中佐正六位勲四等 大原里賢墓」がある。
ここには里賢以降の大原家の墓所で第一中学校の名校長の誉れ高かった里賢の嗣子里靖の墓もある。
里賢の肖像が手に入れば個人伝を立ち上げる予定なのでここでは簡単な略歴にとどめる事にする。

里賢は土佐郡小高坂村士族三原武右衛門の二男として生まれ後に大原里勝の家を嗣いだ。
幕末には戊辰戦争にも従軍、明治3年12月大坂兵部省出張所に歩兵呼び生徒を仰せつけられ入隊し以後累進し日清戦争に出征し功を立てた人物。
退役後は先代達に劣らず郷土の為に尽くし村民は心からその偉徳を慕ったと云う。
大原里賢一族
大原里賢一族の墓所

海軍少尉 村田熊猪墓所

村田熊猪
海軍少尉 村田熊猪 肖像

村田熊猪(むらた くまい)
{最終階級}海軍少尉 勲六等
{生没年}明治13年?〜明治37年5月15日 


≪村田熊猪 経歴≫
長岡郡十一村平民にして海南学校に学び後海軍兵学校に入学、明治30年 卒業し海軍少尉候補生となる。
37年 日露戦役が起こると「吉野」乗組として出征、開戦以後航海長に従属し旅順第一回攻撃以後数回の攻撃に参加し功あり。
5月15日夜旅順港外封鎖活動中に濃霧の為、「春日」と衝突し沈みゆく艦内において御眞影を取り出しカッターに移ろうとするも艦は既に沈み始めて脱出できず。
艦長 佐伯大佐と共に陛下の万歳を高唱しつつ渦中に投じ没す、享年23歳。
即日海軍少尉に昇り單光旭日章を賜る。
【寺石正路「土佐偉人傳」・大植四郎「明治過去帳」参考】

村田熊猪墓
勲六等 故海軍少尉村田熊猪墓

◆高知県南国市十一の海沿いの道を行くとひと際大きな墓石が目に入る。
両脇にも石燈篭の設置されたこの立派な墓の主は土佐偉人傳にもその名が残る人物「勲六等 故海軍少尉村田熊猪墓」である。
各面には経歴などが記されており、また周囲は村田姓の墓所でここはご子孫がおられる様子である。
眼前には太平洋が広がっており、海を前に過ごし、海で死し、海を前に眠るまさに海と共に歩んだ熊猪の人生に思いを馳せる。

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