home > 都道府県別軍人 > 奈良県

奈良県出身軍人

奉天会戦 勇戦の末戦傷死した陸軍中将
前田隆礼 氏名
前田隆礼(まえだ たかのり)

最終階級
陸軍中将 正四位勲二等功三級
生没年
1848年8月30日〜1905年3月26日
嘉永元年〜明治38年3月26日
<草創期 歩兵>

■経歴
十津川郷士 前田利一の長男にして幼より武芸を好み16歳にして天誅組の乱に参加する。
慶應3年 江戸に出て薩摩藩邸に入り武術を磨き、翌4年幕府の威信失墜による市中混乱の中薩摩藩士と闊歩していた所、庄内藩士に囲まれるも剣を振るい血路を開いた。
鷲尾隆聚を擁した高野山挙兵に参加後、東征に従軍し津川で臀部に負傷するも屈せず健闘した。
■明治初年の動乱
明治にはいると御親兵として出仕し中尉に任ぜられ5年 大尉に進み佐賀の乱、台湾出兵に従軍後、9年 戸山学校に入る。
西南戦争では別働第1旅団歩兵第12連隊第1大隊中隊長として各地を転戦し肥後境村で負傷、その神速機敏を以て大寺安純、佐藤正と連隊三傑と称せられた。
戦功により勲五等に叙し、12年 近影歩兵第1連隊第1大隊中隊長、14年 東京憲兵本部隊分隊長に転じた。
17年1月 少佐に進級し憲兵第2大隊長に補し従六位勲四等に叙せらる。
■日清戦争
18年5月 歩兵少佐に戻り歩兵第8連隊第2大隊長に転じ、24年11月 歩兵中佐に進み同連隊長に補し日清戦争に出征し遼東半島、台湾に転戦した。
戦功により功四級に叙し歩兵大佐に進み新設の久留米歩兵第48連隊長に転じ、32年 少将に進級し歩兵第18旅団長に補せられ勲四等瑞宝章を賜う。
36年7月 台湾守備混成第2旅団長を経て歩兵第22旅団長として日露戦争に出征する。
■日露戦争で戦傷死
旅順攻囲戦に参加し東鶏冠山、望台、203高地での戦闘に功あり、旅順陥落後に北進し奉天会戦に於いて清河城を突き救兵台での戦闘で貫通銃創を負い五龍口の定立病院で治療となる。
病状は良好に向かっていたが肺炎を併発し身体衰弱となり26日午後11時55分に逝去、享年58歳。
中将に昇進し功三級、旭日重光章を賜ひ4月23日 奈良県字智郡五條町に於いて葬送に付き勅使により弊帛を下賜せられ次いで妻に五千五百圓賜う。
40年10月 前田家は隆礼の勲功により男爵を授けられた。

☆旅順開城後、「旅順を見んが為に戦闘したるにあらず、既に我が占領に帰したる以上は何が為に旅順を見物する必要のあらむ、余は物見遊山の為に入城するを欲せざるなり。」と隆礼は遂に旅順に入らなかったと云う。
☆黒木為禎、乃木希典山地元治、大寺安純ら将軍と交友深く特に山地への崇敬の念篤かった。

参考資料
書籍名著者出版社
征露戦報実業之日本社
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術


袈裟将軍
馬場命英 氏名
馬場命英(ばば のぶひで)

最終階級
陸軍少将 正四位勲二等功三級
生没年
1850年〜1917年2月
嘉永3年7月〜大正6年2月
<草創期 歩>

■経歴
柳澤藩士宇野命詮の子でのち馬場命宣の養子となった。
西南戦争では別働第二旅団第三中隊長として出征。
日露戦争では歩兵第三十連隊長として旅順攻撃に参加し、決死の覚悟と戦没将士の霊を弔うため、常に袈裟を身にまとっていたため、「袈裟将軍」とその勇名を知られた。
墓所は大和郡山市の永慶寺にある。



日露戦争下 歩兵第17連隊長
渡部之 氏名
渡部之(わたなべ すすむ)

最終階級
陸軍歩兵大佐 正五位勲三等功三級
生没年
1852年12月〜1930年5月5日
嘉永5年11月〜明治39年4月21日
<草創期 歩>

■経歴
江戸麹町永田町に大和郡山藩士 松山眞蔵と文子の子として生まれ幼くして父の生家である渡部氏を継ぐ。
慶應3年12月に大和郡山に移り京都、大坂に遊学し明治2年1月大和郡山藩士族隊分隊司令、8月卒族隊司令を歴任。
3年9月紀州和歌山藩立兵学校に入り軍事を研究、4年2月大坂陸軍兵学寮に入り6年5月陸軍少尉に任ぜられ陸軍教導団歩兵大隊附となる。
9年7月中尉に進み西南戦争が始まると征討軍団附となり田原坂、植木、木山町に転戦し鹿児島まで進み平定に凱旋。
戦功により勲六等に叙し後東京鎮台附となる。
16年5月士官学校附に転じ7月大尉に進み歩兵第6連隊中隊長に補せらる。
18年6月教導団生徒隊中隊長、20年4月歩兵第4連隊中隊長を歴任後25年11月歩兵少佐に昇任し歩兵第13連隊第1大隊長に就任する。
■日清戦争 威海衛攻略戦
日清戦争では第6師団に属し威海衛ではその背面からの攻撃を担当し摩天嶺の堡塁など難所の攻略に貢献、戦功により功四級に叙せらる。
その後累進し34年頃には歩兵第43連隊長となっておりこの頃に歩兵大佐に進んだものと思われる。
35年11月歩兵第17連隊長に転じ日露戦争に出征、各地に転戦し戦功を上げたが病の為に帰朝、戦後の39年4月遂に不帰の人となった。
享年55歳であった。

inserted by FC2 system