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大分県出身軍人

樺太征討軍司令官
原口兼済 氏名
原口兼済(はらぐち けんせい)

最終階級
陸軍中将 従二位勲一等功三級 男爵
生没年
1847年4月2日〜1919年6月18日
弘化4年2月17日〜大正8年6月18日
<草創期 歩兵>

■経歴
豊後に生まれる。森藩士 原口等の嗣子で幕末には佐幕に傾く藩論を今井良一等と謀り西郷隆盛等の後援を得て藩の勤王主義を貫徹させた。
明治3年11月に陸軍兵学寮青年学舎に入り軍歴が始まる。
5年に陸軍少尉任官後、教導団附、東京鎮台附などを経て7年12月に士官学校附となり以後23年に亘り士官学校及び戸山学校での指導を其の任とした。
西南戦争には征討第四旅団の中隊長として出征した。
戦後も生徒督励の任に再び就き15年3月に東京鎮台歩兵第三大隊長に任ぜられるがわずか6カ月で再び将校教育の任に当たる。
23年11月にドイツ派遣となり在留中に陸軍大佐、戸山学校長に就任。
帰朝後、近衛歩兵第1連隊長を経て日清戦争には第4師団参謀長として出征した。
再び戸山学校長に就き29年九月に陸軍少将に進んで後、歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵第17旅団長を歴任。
日露開戦に至るや韓国駐剳軍司令官、大本営附、教育総監部参謀長を目まぐるしく務め38年1月陸軍中将に進級し第13師団長として樺太征討軍を指揮しこれを平定した。
戦後間もなく休職し40年11月に予備役編入となった。



日本の医学界に貢献
田代基徳 氏名
田代基徳(たしろ もとのり)

最終階級
陸軍軍医監 正五位勲三等
生没年
1839年〜1898年3月21日
天保14年1月14日〜明治36年3月6日
<軍医>

■経歴
幕末に緒方洪庵に蘭学を,江戸で西洋医学所で学び塾頭となる。
幕府軍医を経て明治維新後は大学出仕。
医学会社の設立に参加、病体解剖社を創立と医学会へ貢献した。
明治25年に年陸軍軍医監となり、陸軍軍医学校長に就任している。

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