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勇敢なる岡崎旅団

岡崎生三 氏名
岡崎生三(おかざき せいぞう)


最終階級
陸軍中将 従三位勲一等功二級 男爵

生没年
1851年2月3日〜1910年7月27日
嘉永4年1月3日〜明治43年7月27日

草創期 歩兵
岡崎陸軍中将 経歴

土佐藩士 岡崎信高(俊蔵)と茂登子(岡崎典七の長女)の長男として幡多郡中村に生まれ、後に高知南新町に移る。
幕末 14歳頃に坂本龍馬に海援隊への参加を求めるが年少の為に断られている。


戊辰の役には山地元治の部下で小谷中隊に属し会津攻めをはじめ各地に転戦、戦功を立てる。
明治4年 御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し5年1月 中尉に進む。
東京鎮台付などを歴任後、8年 従七位に叙せらる。
10年 西南戦争に出征し陣中5月大尉に進み田原坂の激戦などを戦い抜く。
凱旋後、戦功により勲四等に叙し旭日小綬章を賜う。
12年 監軍本部員、13年頃 近衛歩兵第2連隊第1大隊中隊長を歴任し叙正七位。
16年2月 少佐に任じ歩兵第6連隊大隊長に補し従六位に叙せらる。 17年12月 大阪鎮台参謀、21年頃 近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、24年4月 中佐に進み東宮武官に就任する。
同年12月より休職仰せつけらるも日清戦争の開戦により27年8月 後備歩兵第1連隊長として復帰した。
戦中の27年12月 留守第4師団参謀長に転じ、28年に威海衛占領軍参謀長に就任し(28年5月 大佐に進級)占領地行政にあたり31年まで清国に駐留した。
31年8月 仙台の第2師団参謀長に就任、34年には陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長に補せらる。


日露戦争には黒木為禎率いる第1軍麾下の第2師団(師団長 西寛二郎)の第15旅団長として出征。
九連城攻撃に参加した後、第1軍は遼陽前面に進出する為要害の地、弓張嶺突破することとなり夜襲が計画された。
この夜襲で岡崎旅団は銃を発砲しない無声突撃を決行し、闇夜の中を的確に敵を撃破し二時間半で敵陣地を制圧した。
9月 遼陽会戦における饅頭山の争奪戦では4倍のロシア軍を相手に奪っては奪い返されの激戦を繰り広げる中、常に陣頭にて指揮をとった。
激しい砲銃声の為にロシア軍の位置が全くわからなくなったとき、ラッパ手に射撃停止を命じ敵の位置を確認、日本軍が退却したと判断し山頂に迫るロシア軍に対し急射突撃を仕掛け見事撃退し遂に饅頭山の確保に成功した。
この山は岡崎旅団の功績から「岡崎山」と命名され昭和20年まで日本地図に明示された。
12月 勲二等瑞宝章を賜う。

鉄道唱歌(満韓鉄道編)40番にも岡崎旅団の事が歌われている

「岡崎旅団が苦戦せし 其名を残す岡崎山
 見ながら渡る太子河の 水を凱歌や歌ふらん」

沙河会戦、奉天会戦でも戦い見事な活躍をしたと云う。

39年4月功により功四級に叙し旭日重光章を賜う。
歩兵第20旅団長を経て39年7月 陸軍中将に昇り第13師団長に補し韓国に渡り暴徒鎮圧に功あり、40年9月には日露戦争の功により男爵を叙爵し勲一等を叙せらる。
41年帰朝し43年6月 心臓病を患い待命仰せつけられ7月27日越後高田町にて60歳で逝去。
特旨を以て従三位に進めらる。
夫人 榮子との間に一男二女あり、長男 正雄は陸軍大佐まで昇った。


参考資料
書籍名著者出版社
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
戦場の人間学 旅団長に見る失敗と成功の研究篠原昌人光人社
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
日露戦争実記博文館
日露戦争名将伝柘植久慶PHP文庫
日露戦争明治人物烈伝明治「時代と人物」研究会徳間書店
平成新修華族家系大成霞会館華族家系大成霞会館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
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