■経歴
幕臣 新井徳三郎と母 清水氏の三男として江戸に誕生、旧名を鐘吉と称した。
幕末には江戸幕府御船方を勤務し維新後の明治4年12月海軍兵学寮十三等出仕となり、翌5年3月海軍少尉に任官。
6年3月清国沿岸を回航し帰朝後、海軍中尉に進み7年6月兵学寮出勤となり翌年サンフランシスコに回航する。
10年2月には西南戦争の為、九州に回艦し12月には海軍大尉に進級となり戦役の功により勲六等に叙される。
11年1月オーストラリア回航、2月海軍少佐に昇任し「筑波」副長に補され4月より北米、南米を回航。
18年2月「日進」艦長に補され19年4月海軍大佐に進み「海門」艦長に補された。
20年5月より艦隊戦闘方法演習調査員も務め、21年6月「扶桑」艦長に転じ22年5月には横須賀鎮守府予備艦総理兼航海部長に転じた。
またこの年より横須賀鎮守府軍法会議判士、海軍下士卒被服制及び被服給与法改正調査委員などを務め、23年1月「千代田」艦長に転じ同艦の回航委員長としてイギリスに出張し無事艦と共に帰朝する。
帰朝後に「浪速」艦長に転じ25年呉鎮守府予備艦部長兼知港事に補され27年6月「扶桑」艦長となり日清戦争を迎える。
戦役では陸軍運送船の護衛などに従事し黄海海戦、威海衛攻撃にも参加し戦功により功四級に叙される。
28年11月横須賀鎮守府予備艦部長兼知港事、30年10月横須賀軍港部長を歴任し、31年5月海軍少将に昇任した。
33年5月横須賀港務部長となり35年7月より休職となるが37年日露開戦により2月より大本営附として復帰し、戦利品となった沈没した露国防護巡洋艦「ヴァリャーグ」の引き上げに見事成功するなどの功績を残した。
38年9月海軍中将に進み39年12月休職、40年2月に予備役編入となりその2年後の42年12月に没した。
|