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軍人史跡 小高坂山・丹中山・永福寺山

陸軍歩兵中尉 前田重顯墓所

前田重顯
陸軍歩兵中尉 前田重顯の肖像写真

前田重顯(まえだ しげあき)
{最終階級}陸軍歩兵中尉 従七位勲六等功五級
{生没年}明治11年〜明治37年8月21日 


≪経歴≫
初名梅多子、高知縣士族にして高知県土佐郡小高坂村西町に誕生する。
海南学校に学び後に上京し明治31年陸軍士官学校に入り34年歩兵少尉に任ぜられ高知44連隊小隊長に補せらる。
日露戦争に出征し旅順攻囲戦に参加、第一回総攻撃に於いて8月21日左翼隊に属し東鶏冠山北砲台に突撃するも砲台下に戦死した。
享年26歳、即日歩兵中尉に進み功五級金鵄勲章、勲六等單光旭日章を給はる。
【寺石正路著・土佐偉人傳参考】

◆この歩兵中尉前田重顯の墓が丹中山のすぐ南側にある永福寺山にある。 この山は小さな山なので墓所を探すのにもそれほど時間はかからないはずだが管理人が訪れた際は墓所までの道が雑草でおおわれていたので思わぬ足止めを食うかも知れない。
ちなみに高知市朝倉の陸軍墓地にも墓が建っている。
前田重顯墓所
前田重顯墓所には父重政ら一族の墓が並ぶ。

前田重顯墓
前田重顯墓

陸軍歩兵少佐 奥宮正勝墓所

奥宮正勝墓
奥宮正勝墓

奥宮正勝墓所
奥宮正勝墓
◆丹中山歴史公園にある坂本家の墓所の背後は一般の墓が綺麗に整理され並んでいるがふと軍人の墓らしき物が見られたので近づいてみると、やはりそこに刻まれた文字は「陸軍歩兵少佐 奥宮正勝 墓」である。
奥宮少佐については土佐軍人列伝に記述があるので参考にして頂きたい。
奥宮家の墓所内、正勝の隣には「奥宮登志 墓」とありおそらく妻のものであろう。

陸軍中将 松村修己墓所

松村修己墓
陸軍中将 松村修己墓
松村修己墓所
松村修己墓所
◆今や歴史公園となった坂本家の墓所のある丹中山からさらに北側にある小高坂山。 この山の蛭ヶ谷墓地(藩政時代最後の仇討を果した廣井磐之助や土佐勤王党の広瀬健太招魂碑がある)から山に昇り(ちょうど登りきった辺りには土佐勤王党の川原塚茂太郎の墓もある)南の方に歩くと少し開けた空間にポツンと二基の小さな墓石が並んでいる。
のぞいてみるとそこには「陸軍中将 従四位勲三等 松村修己之墓」と刻まれている。
陸軍中将と云うと明治期なら相当巨大な墓が建ってそうなものだが、こちらは普通の墓石よりも更に少し小振りにした感じの物だ。
松村修己一族墓所か
松村修己一族墓所かと思われる松村姓の墓石
この妙に開けた空間の端の方に松村姓の墓石が並べられており、おそらくこの空間に建っていたものではないかと推測する。

松村中将は砲兵科出身で澎湖島要塞司令官、下関要塞司令官などを歴任した軍人。
昭和12年2月6日に55歳で没している。

陸軍歩兵大尉 石黒光正墓所

◆陸軍中将松村修己墓所から北に向かうと左側の少し茂みのようになった場所に墓石がみえる。
墓石には 「正六位勲六等 石黒光正墓」 と記されている。
この墓石の主も土佐藩からの御親兵献上の頃から陸軍に出仕した人物で明治4年の官員録に既にその名が見られ、墓石の各面には西森真撰書の墓碑銘が記されている。

石黒光正墓所
茂みに覆われた石黒光正墓所
石黒光正墓
石黒光正墓

≪石黒光正 略歴≫
土佐藩士 石黒儀左衛門の子として生まれ、父亡き後はその跡を継ぎ藩の官職に就き累進し小監察となる。
維新後の明治4年御親兵として上京し陸軍中尉 陸軍省十等出仕、7年陸軍大尉に任じ工兵第一方面提理となり14年軍律取調掛や陸軍裁判所御用掛を務める。
15年名古屋鎮台理事、17年10月より金沢営所軍法会議主事、20年第5師団法官部理事を歴任。
23年後備役編入となるも日清戦争により後備第19大隊第3中隊長として渡韓し東学党征伐に各地を転戦、朝鮮国開城府守備隊長に補せらるも現地で病没した。
【明治過去帳・墓碑銘を参考】

墓碑銘には長男の光隆が家を継いだ事が記されているが周囲にそれら一族の墓は見られなかった。

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