home > 軍人史跡 > 天場山

軍人史跡 天場山

陸軍少将 清水喜代美墓所

清水喜代美墓
陸軍少将清水喜代美墓
◆イオン高知を北側に見ると広がる山、これが天場山と云う。
この山の南麓に岡三所神社がありそこから山道を道なりに北に進んでいくとたどり着くのが「陸軍少将 従四位勲三等功四級 清水喜代美墓」である。

清水少将は支那事変に於ける山西省五台県城攻略の猛将として知られ、五台県石佛寺付近で進功してくる三倍の敵に対して奮闘、陣頭にて督戦中に敵弾に斃れた。
墓碑銘は陸軍中将河村薫によるものである。 清水喜代美一族墓所
清水喜代美一族墓所
清水巌男墓
陸軍少佐清水巌男墓
清水墓
東京陸軍幼年学校生徒清水雍男墓

広い墓域内には少将家族の墓の前に随分と古い墓もあり姓は全て「清水」であるのでおそらく一族のものと思われる。

少将の隣には妻「清水亀寿」の墓にその隣には夭折した娘二人の墓が並ぶ。
さらにその隣は昭和十四年十二月に陸軍幼年学校在校中にわずか十六歳で没した二男「清水雍男」の墓。
一番端に陸軍少佐まで進んだ長男「清水巌男」の墓があり、巌男は昭和四十一年五十歳まで生きた。

陸軍騎兵大尉 清水尚麿墓所

清水尚麿墓
清水尚麿墓は経年により随分苔生している。

◆天場山の道なき道を歩くと場所としては小南五郎の墓所よりさらに東に位置する場所に「陸軍騎兵大尉 正七位勲六等功五級 清水尚麿墓」がある。
その他一族の墓もどれも古いものばかりで尚麿の墓も画像の通り苔生している。

≪清水尚麿 略歴≫
高知市北門筋五士族にして明治14年2月1日に生まれる。 海南中学校、陸軍士官学校を卒業し少尉任官後、第1師団第1連隊附に補す。 日露戦争では第1連隊旗手として第2軍に属し金州、土城子など各地に転戦、8月 中尉に進み第3中隊小隊長に補し第3軍に転属し旅順攻囲戦に参加。 奉天戦の後司令部附となるも38年9月羅病、25日盛京省法庫門兵站病院に病死す。
大尉に進み正七位勲六等功五級に叙し單光旭日章を賜ふ。
【大植四郎編著「明治過去帳」・清水尚麿墓碑銘 参考】

清水尚麿墓所
清水尚麿墓所、一族の墓はどれも古いものばかりである。

陸軍歩兵少佐 松木正保墓所

松木正保墓所
陸軍少佐 松木正保墓所(前列右から二番目が少佐の墓)
◆天場山の西側には幕末坂本龍馬と共に活動した溝渕広之丞の墓所(山本泰三著・土佐の墓を参照)があるのだが、さらにそこから南東に生い茂る木々で薄暗い道を行くと道からは低くなった場所に数基の墓石がある。
この中の一基に「陸軍歩兵少佐 従六位勲四等 松木正保墓」と記された墓を発見した。
大正12年1月11日に76歳で没しており、年齢から考えても1849年(嘉永2年)辺りの生まれである。
少し資料などを探してみると、戊辰戦争に従軍し明治4年8月御親兵献上の頃より土佐藩から陸軍中尉として出仕、この頃の同階級の出仕者には武田秀山、今村長賀、吉本祐雄などがいる。
西南戦争、日清戦争にも従軍しており東学党征討に当った。
日清戦争後の凱旋で松木率いる朝鮮守備隊が松山に帰港の際盛況なる歓迎を受けた。
この時、師範学校と尋常中学校との衝突が発生しているがこの事件も夏目漱石の「坊っちゃん」に描かれた両生徒の衝突にもいくらか反映されているのでは…
松木少佐については情報が集まれば「土佐軍人列伝」に加える予定です。
松木正保墓
陸軍少佐 松木正保墓
inserted by FC2 system