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徳島県出身軍人

日露戦争で留守第3師団長を務める
高井敬義 氏名
高井敬義(たかい たかよし)

最終階級
陸軍中将 正五位勲二等
生没年
1844年〜1917年12月1日
天保15年〜大正6年12月1日
<草創期 歩兵>

■経歴
西南戦争に従軍し明治20年より歩兵第10連隊長、近衛歩兵第4連隊長を歴任。
日清戦争では南部兵站監を務め戦後は歩兵第15旅団長、台湾守備混成第3旅団長を務め36年には予備役に編入されていたが日露戦争の開戦により留守第3師団長に任命された。



徳島初の陸軍大将
上田有沢 氏名
上田有沢(うえた ゆうたく)

最終階級
陸軍大将 従三位勲一等功二級 男爵
生没年
1850年3月27日〜1921年11月30日
嘉永3年2月14日〜大正10年11月30日
<草創期 歩兵>

■経歴
徳島藩士 上田吉之丞の次男。戊辰戦争に従軍し維新後、御親兵創設に参加し明治5年に大尉に任官する。
西南戦争には第2旅団隷下で戦い戦後、参謀本部管西局員となる。
仙台鎮台歩兵第4連隊第2大隊長、熊本鎮台参謀、第3師団参謀など歴任後、歩兵第22連隊長に就任。
日清戦争では第5師団参謀長を務めた。戦後、西部都督部参謀長を経て少将に進み陸軍大学校長、歩兵第22旅団長、教育総監部参謀長を歴任。
日露戦争には第5師団長として出征し遼陽、沙河の開戦に参戦。戦役中に台湾守備軍司令官に任命されている。
戦後、第7師団長、近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官を歴任後、大将に昇り後備役編入となった。



日清戦争では兵站を担う
谷田文衛 氏名
谷田文衛(たにだ ふみえ)

最終階級
陸軍中将 正四位勲二等功三級
生没年
1855年9月20日〜1930年5月5日
安政2年8月9日〜昭和5年5月5日
<草創期 歩兵><陸大2期>

■経歴
徳島に生まれ蜂須賀氏に仕える。明治4年11月徳島藩庁に於いて内外警備として大坂府出張を命ぜられ、5年3月同地に至るや高松、姫路の藩兵と合流し歩兵第19大隊と称して大阪鎮台附となる。
6年5月より熊本鎮台附に転じ筑前竹槍一揆が起こると鎮定に参加、7年3月より佐賀の乱の後の同地警備の任に当り4月からは台湾出兵に陸軍軍曹として征討戦に参戦した。
9年10月神風連の乱では歩兵第13連隊に属し戦い、次いで起こった西南戦争では熊本鎮台司令長官谷干城が籠城するやこれに従い4月陸軍少尉試補に任ぜられ、籠城戦後は肥後、豊後、日向に転戦し7月陸軍少尉に進み戦役終結を以て10月熊本に凱旋する。
11年8月台湾、鹿児島征討の功により勲六等に叙され14年4月歩兵中尉に進み大坂鎮台附となる。
16年7月参謀本部管東局員に転じ17年2月陸軍大学校に入校18年1月任歩兵大尉、19年12月陸軍大学校を卒業する。
20年1月陸軍士官学校教官となり22年9月歩兵第1旅団副官に転じ25年2月歩兵少佐に昇任、歩兵第5連隊に赴任、26年1月陸軍省軍務局課員に転じた。
日清戦争では南部兵站監部副官、金州半島兵站参謀長などの任を命ぜられ運送、通信等諸事の指揮を執り28年4月歩兵中佐に昇進、また戦功により功四級に叙される。
29年9月陸軍中央幼年学校長となり30年10月歩兵大佐に進む。
31年10月近衛歩兵第4連隊長、32年3月臨時建築部事務官、34年2月第2師団参謀長を歴任後の35年5月陸軍少将に昇任、歩兵第20旅団長に補される。
36年1月台湾総督府陸軍幕僚参謀長に転じ日露戦争では同地に於いて守備の任に当った。
40年2月歩兵第10旅団長、11月には新設の歩兵第22旅団長に転じ42年8月陸軍中将に進むとともに憲兵司令官に補され43年11月予備役編入。
昭和5年5月に76歳で没した。



日露戦争 歩兵第40連隊長として戦う
鎌田宜正 氏名
鎌田宜正(かまた よしまさ)

最終階級
陸軍少将 正五位勲三等功三級
生没年

<草創期 歩兵>

■経歴
明治五年五月の少尉任官。 鎌田将軍の事跡はほとんど定かでないが明治7年の歩兵第八連隊の軍旗授与の際に旗手を務めると云う栄誉を仰せつけられている。
西南戦争、日清戦争にも出征しており日清の時に功四級金鵄勲章を授与されたと思われる。
33年に歩兵第40連隊長に就任し翌年大佐に進む。
日露戦争には同連隊長として出征し戦役中に少将に昇り歩兵第16旅団長に就任し転戦した。
戦後間もない39年7月に休職し翌月に退役している。



日清戦争 第2軍に属し転戦
渡邊勝重 氏名
渡邊勝重(わたなべ かつしげ)

最終階級
陸軍少将 従四位勲三等功三級
生没年
1850年1月24日〜1921年4月29日
嘉永2年12月11日〜大正10年4月29日
<草創期 歩兵>

■経歴
阿波國徳島富田北山路町(現:徳島県徳島市)に誕生する。父は渡邊喜平、母は馬宮氏綾子。
幼少より文武を研修、藩校長久館に入り学び維新後はあ藩知事の命で文武修業の為四国を遊学しまた佛式操練を修学した。
明治4年2月徳島藩常備1番大隊1番中隊大尉として上京し市中取締り、諸門警衛に当たった。
12月より新政府に出仕し陸軍大尉心得を以て大阪第2分営小隊取締を命ぜられ5年4月に陸軍大尉に進んだ。
8年5月歩兵第12連隊第2中隊附となり7月より戸山学校入学し諸科訓練を受け、9年5月同連隊第3中隊に転任。
10年3月より西南戦争の為出征し大隅、日向をはじめ各地に転戦し功により勲五等に叙される。
12年4月歩兵第11連隊第一中隊長、13年12月歩兵第8連隊第3中隊長、16年2月歩兵第10連隊副官を歴任。
17年5月陸軍少佐に昇任し歩兵第3連隊第2大隊長に補し、20年12月歩兵第2連隊第3大隊長に転じる。
日清戦争では第2軍に編入され出征し金州、旅順の攻略で功を成し28年1月陸軍中佐に進み第二軍復州兵站司令官に就任し3月には第二軍司令部附を命ぜられる。
日清講和後は旅順行政署長や旅順民政支部長などを務め善政を行い清国民は其の徳に服したと云う。戦功により功四級に叙される。
29年9月新設の歩兵第47連隊長に就任、30年10月陸軍大佐に進む。
33年10月より休職となるが日露戦争の開戦により37年6月復帰し後備歩兵第12連隊長を命ぜられた。
38年8月陸軍少将に昇任し歩兵第19旅団長に就任、功により功三級に叙され12月待命となり翌39年1月後備役編入となった。
渡邊勝重塚が徳島市寺町の還国寺墓所にある。

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