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軍人史跡 徳島市

渡邊勝重墓所

渡邊勝重墓全景
渡邊勝重墓全景 奥の法身塔の側面の従四位 少将渡辺勝重と記されている。
渡邊勝重塚
渡邊勝重塚
渡邊勝重妻 秀子墓
渡邊勝重妻 秀子墓

◆徳島市寺町の還国寺の墓所に陸軍少将 渡邊勝重の塚がある。
塚は墓でもあるわけだが、記念碑的な意味合いもあるようで、ここに渡邊勝重が埋葬されたのかは定かでない。
隣の妻秀子のものは正面は戒名で間違いなく墓であると思うのだが。
勝重の塚側面には詩が記されているのだが、ここを訪れた段階で日没が迫り綺麗にみる事が出来なかった。

徳島陸軍墓地

旧徳島陸軍墓地
徳島忠霊塔

◆徳島市内にある西部公園はかつて徳島陸軍墓地だった場所である。
遺構は石灯篭や忠霊塔、ドイツ軍兵士の墓が残るくらいのもので他は特に見当たらない。
ここの忠霊塔は敗戦後、進駐軍ロバート部隊長より即刻取り壊しを依頼された吉田喜一氏が
「私は軍籍がありません。一町民が護守申し上げているのだからこのままで置いて下さい。」
と願い出、それなら黙認しようとの事で日本全国で数少ない立派な塔が無傷で残ったものである。
塔の中で一番古い戦没者は明治10年6月3日に没した陸軍二等卒磯部勝三郎。
どこの忠霊塔も(今まで管理人が見てきた忠霊塔は)戦没者を記した石碑や銅板などがあったのだが、この忠霊塔にはそれは見当たらない。
西部公園内にある「忠霊顕彰記念碑」にこの陸軍墓地の事が記されている。

忠霊顕彰記念碑
忠霊顕彰記念碑

◆忠霊顕彰記念碑書いてある事は要約すると以下のような事である。
徳島陸軍墓地は当初は規模も小さく墓参道は険しかった。
支那事変以来戦没勇士英霊を迎えるのに官民共遺憾に思っていたところ、徳島連隊区司令官 陸軍大佐森本装太郎が墓地改修を提唱し県民の奮起を促した。
これに応じた県民有志は忠霊顕彰会を結成し会長は徳島県知事 清水良策が推されその座についた。
県内外に協力を求めたところ多くの人々が協力、その勤労奉仕によって昭和17年8月8日遂にその完成を見るに至った。

◆下の写真は第一次世界大戦での青島攻防戦の際に捕虜となり徳島の陸軍衛戍病院で療養中に没した二人のドイツ兵の墓。
忠霊塔竣工の際、日独同盟の象徴としてこの地に移送された。

ドイツ兵の墓
ドイツ兵の墓

陸軍歩兵大尉 長谷川駿兒墓

長谷川駿兒
長谷川駿兒 肖像
長谷川駿兒
長谷川駿兒 墓
氏名
長谷川駿兒(はせがわ しゅんじ)
最終階級
陸軍歩兵大尉 正七位勲五等功五級
生没年
1873年〜1905年3月5日
明治6年〜明治38年3月5日

◆徳島市大字福島本町 長谷川貞誠と母 池田氏の子として誕生。
世々阿波の閥族。
士官学校を卒業後、少尉中尉と累進。
大尉に任ぜられ軍法会議判士に補し、日露戦争が始まるや第11師団後備歩兵第43連隊中隊長として出征。
職務に精励し沙河会戦に於いて偉功を立てるも三道崗子の戦いに於いて敵弾に斃れた。
後備歩兵第43連隊 連隊長であった野島丹蔵(高知出身)は遺族に慰問状を送り、「長谷川駿兒君の如き勇敢無比の将校を失ひしは、単に連隊の不幸のみならず、国家の為誠に痛惜に堪えず候。」とその死を惜しんだ。
墓碑銘は行政裁判所長官正三位勲一等 松岡康毅撰。
また、この徳島市の墓の他に香川県丸亀市の丸亀陸軍墓地にも墓がある。

陸軍大尉 小野安深墓

小野安深墓
故陸軍大尉 小野安深 墓
小野安深一族 墓
小野安深一族 墓

◆徳島市伊賀町の光仙寺の墓地になるのか霊園をひとつ隔ててある墓地の中に長い柱状の苔生した墓石が3基並ぶ。
その内の一基が「故陸軍大尉小野安深之墓」である。
傍らには碑が建てられ安深の経歴が記されたものだ。
明治10年の西南戦争に新撰旅団輜重部長として出征するも鹿児島に於いて33歳で病没している。
「小野氏祖先代々之墓」と父母である小野安敞夫婦の墓が並ぶ。

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