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鳥取県出身軍人

鳥取出身軍人の先任
後藤常伴 氏名
後藤常伴(ごとう つねとも)

最終階級
陸軍少将 正五位勲三等
生没年
1848年〜1907年5月20日
嘉永元年〜明治40年5月20日
<草創期 歩兵>

■経歴
明治5年 陸軍中尉に任じ、8年頃 大尉に進み正七位に叙せらる。
西南戦争には歩兵第10連隊第1大隊第2中隊長として出征し戦功により勲五等に叙せらる。
13年頃 参謀本部に出仕、14年3月 佐藤正と少佐に進級し歩兵第3連隊第3大隊長に補し従六位に叙せらる。
15年 広島鎮台参謀に転じ17年11月 勲四等、18年3月 演習第5旅団参謀仰せつけられ21年頃 歩兵第2連隊第1大隊長に転じる。
23年6月 中佐に進み歩兵第13連隊長に補し叙従五位、日清戦争では留守近衛師団参謀長を務めた。
28年6月 大佐に進み次いで予備役に編入せらる。
34年4月 後備役に入り日露戦争が始まると後備第58連隊長として北韓に転戦し功あり。
39年4月 退役し5月 少将に昇り正五位に叙せらる。
40年5月 兵庫県明石町で病没、享年60歳。
葬送に付き勅使として同県知事 服部一三を差遣、白絹二匹を下賜せらる。
嗣子を元治と云う。

参考資料
書籍名著者出版社
因伯立志人物 鳥取仏教青年会横山書店
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
明治肖像録藤野彦次郎明治館
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房


輜重兵科の先任将校の一人
岡田貫之 氏名
岡田貫之(おかだ つらゆき)

最終階級
陸軍少将 従四位勲三等功四級
生没年
1853年12月6日〜1918年11月2日
嘉永6年11月6日〜大正7年11月2日
<草創期 輜>

■経歴
因幡國鳥取外吉方町(現:鳥取県鳥取市吉方町)に誕生、幼名は源一と云う。
先祖は美濃國安八郡藪田村の出で藪田将義と云い池田信輝、輝政に仕え池田光仲が鳥取に封ぜられるやこれに従い以来子孫は鳥取藩士であった。 13代目の藪田将貫の二男が貫之で安政年間に故ありて藪田氏は断絶するが万延年間に岡田氏を名のるにいたった。
藩立学校尚徳館で文武を学び優等にして藩主より数々の賞を受けた。
■輜重兵科に転じる
明治4年より東京に出て林欽次の塾に入り佛学、数学を修め5年7月陸軍教導団生徒となり7年3月砲兵科の学術を終え兵学寮に入校、10月には陸軍少尉試補、東京鎮台砲兵第1大隊附を申しつけられた。
8年1月陸軍少尉に任官し翌年の1月には輜重兵科に転じた。東京鎮台輜重兵第2小隊附、大阪鎮台輜重兵第4小隊附を経て10年に西南戦争が始まるや征討軍団輜重部附を命ぜられ出征。
戦役中には第3、第5、第4の各旅団に転任を重ね各地の輸送を指揮し鹿児島では敵陣への夜襲などにも参加、また7月には陸軍中尉に進んでいる。
■輜重兵科先任将校
13年3月仙台鎮台輜重兵第2小隊長心得、15年2月陸軍大尉に進み同鎮台輜重兵第2小隊長、18年1月輜重兵第1大隊第1中隊長に補せられる。
19年8月より輜重兵下士学術検査委員、10月輸送試験委員、20年3月より騎兵局課員、6月騎兵局第2課長、10月各兵内務書審査委員、21年3月拂下馬匹評価委員などを歴任。
22年11月陸軍少佐に昇任し輜重兵第3大隊長に補し23年6月将校飼養馬匹事務取扱委員長、24年9月小機動演習傭役馬役検査委員長を命ぜられる。
また戦時用の諸種の器具の審査委員を務め、また自らもその改良に着手し中でも輸送駄鞍の改良はその後の輸送に多大な貢献を成した。
■日清日露戦役
日清戦争が始まると第3師団輜重兵第3大隊長を命ぜられ朝鮮國仁川に上陸後、軍に従い各地に軍需品輸送の指揮を執り野戦師団の後顧の憂いをなからしめた。
戦功により功四級に叙される。 明治32年10月陸軍大佐に進み輜重兵監に就任、日露戦争中の37年9月陸軍少将に昇任し戦役には後方勤務研究の為に満州に派遣されている。
明治39年2月予備役編入となった。



鴨緑江軍参謀長
内山小二郎 氏名
内山小二郎(うちやま こじろう)

最終階級
陸軍大将 従二位勲一等功一級 男爵
生没年
1859年11月14日〜1945年2月14日
安政6年10月20日〜昭和20年2月14日
<士官生徒三期 砲兵>

■経歴
鳥取藩士 内山覚治の次男として福岡で誕生。
明治11年に起こった近衛砲兵の起こした竹橋事件に参加し処分を受けた陸軍砲兵少尉 内山定吾は兄にあたる。
明治12年に少尉任官後、陸軍大学校を首席で卒業し第六師団参謀、野砲兵第4連隊大隊長などを務める。 日清戦争には第1師団参謀として出征している。
ロシア、フランスに出張を経て野砲兵第15連隊長、野砲兵第1旅団長を歴任。 日露戦争にも参加し鴨緑江軍参謀長などを務めた。
戦後、由良要塞司令官、東京湾要塞司令官、第15師団長、第12師団長、侍従武官長を歴任。 大正12年に予備役編入。



常陸丸の悲劇
須知源次郎 氏名
須知源次郎 (すち げんじろう)

最終階級
陸軍歩兵中佐 従五位勲三等功五級
生没年
1860年〜1904年6月15日
万延元年〜明治37年6月15日
<士官生徒六期 歩兵>

■経歴
鳥取市掛出町三三士族 鳥取藩士 森福三郎の二男にして幼少の頃、同藩士 須知正直(藩政期に大目付、維新後は藩主家令を勤めた人物)の養子となる。
明治9年 陸軍教導団に入り翌年の西南戦争に伍長として出征するも途上で鹿児島鎮定となった。
14年 陸軍士官学校に入り卒業後、17年 歩兵少尉に任じ姫路連隊附に補せらる。
19年4月 中尉に進み近衛第3連隊附、近衛歩兵第2旅団副官を歴任(叙従七位)。
川上操六の知遇を受け25年6月より参謀本部副官に補す。
日清戦争では大尉に進み第1軍副官として山縣有朋を補佐し九連城、鳳凰城等の戦いに参加した。
山縣が病の為帰国となるとこれに従い、後再び出征し野津道貫の下副官を務め凱旋後、少佐に進み戦功により功五級及び単光旭日章を叙賜せらる。
31年 川上操六の選抜によりフランス留学を命ぜられ4年間フランスを中心に各国を遊歴の後34年8月帰朝。
10月 近衛歩兵第2連隊第1大隊長に補しフランス通として知られる。
35年5月 寺内正毅陸軍大臣の秘書官となり36年6月 近衛歩兵第1連隊附に転じた。
この頃、後に戦う事となるクロパトキンが来日した際接待員を務めロシアよりセントスタニラス二等勲章を受けている。

■日露開戦で常陸丸に乗船するも…
日露開戦により37年6月6日 近衛後備第1連隊長として部下を率い常陸丸に乗込み勇躍して出征するも15日 玄海洋上敵艦の砲撃を受ける。
砲撃の中、兵士達に訣別の辞を述べ、連隊長室に戻った源次郎は連隊旗を焼き旗竿を折り、機密書類も全て焼き尽くし飛来した巨弾の破片を受け悲壮なる戦死を遂げた、享年45歳。
特旨を以て従五位勲三等、旭日中綬章を叙賜せらる。
夫人はちせ子、長男 統は先に没し二男二女あり正武、正忠、はる子、なか子と云う。
須知中佐連隊旗を焼く
・征露戦報より〜須知中佐連隊旗を焼く〜

参考資料
書籍名著者出版社
君に捧げて名和長憲 軍事教育会
征露戦報実業之日本社
忠孝義節大和桜服部竜陽東洋興立教育会出版部
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
外部リンク
・Wikipedia - 常陸丸事件
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