home > 土佐軍人列伝 > 内田正敏

黄海海戦の武功

内田正敏 氏名
内田正敏(うちだ まさとし)


最終階級
海軍中将 正四位勲二等功四級 男爵

生没年
1851年4月16日〜1922年5月11日
嘉永4年3月15日〜大正11年5月11日

海兵三期
内田海軍中将 〜海軍草創期〜


土佐藩士 内田茂助とタキの子として高知城下築屋敷で誕生、幼名を笑三と云う。
早くに父を亡くしたものの、幼時より藩校に通い文武を習い苦学し明治元年には17歳にして北村重頼の砲兵隊に属し戊辰戦争に従軍する。
野州今市で戦い次いで宇都宮、棚倉、三春など各地を転戦し会津若松攻めにも加わった。
凱旋後、藩庁の海軍掛となり海軍の必要性を感じ芝山内麻生塾に通い修学。


明治4年8月 海軍兵学寮に入り6年3月 練習の為「筑波」に乗組み清国やアメリカに渡航する。
9年9月 少尉試補に任ぜられ10年2月 西南戦争が起こるや「雷電丸」乗組となり神戸港警戒にあたる。
11年9月「金剛」乗組に補し7月 少尉に進みウラジオストクに航海する。
13年3月 正八位に叙し7月 中尉に進み次いで従七位に叙す。
15年7月 「龍驤」に転乗し南米及びニュージーランドに遠洋航海し16年帰朝するや大尉に進み正七位に叙す。
17年10月「扶桑」分隊長、18年10月「比叡」分隊長を歴任、20年10月 少佐に進級し兵学校運用術教授長兼練習所長に補す。
21年11月 勲六等瑞宝章を叙賜、22年5月「金剛」副艦長に転じ10月に起こったトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件は今でも日土両国友好関係の象徴として知られるが、この時のトルコ人遭難者を無事本国に送還する任にもあたっている。
24年7月 「鳳翔」艦長となり12月 横須賀軍港司令官副官に転じ同軍法会議判士長を命ぜらる。
26年5月 呉海兵団長心得となり6月 大佐に進み呉海兵団長に補し正六位勲五等瑞宝章を叙賜せらる。
27年2月 「千代田」艦長に転じ近隣諸国を周航する。

内田海軍中将 〜日清日露戦役〜
日清戦争の頃の内田正敏
征清武功鑑五巻より
大佐時代の正敏


明治27年の日清戦争では最初釜山に回航し周辺の警戒にあたり、連合艦隊が編成されるや「千代田」は本隊の2番艦となり旗艦「松島」に次ぐ重要な位置を占め佐世保を出港する。
黄海海戦では速射砲しかないにもかかわらず目ざましい奮闘をし敵艦に大打撃を与えた。
また、伊東司令長官の命により金州沿岸の測量を行い花園河口を見出し第2軍を無事上陸せしめた。
戦功により功四級金鵄勲章、双光章ならびに金五百圓を叙賜せらる。(叙従五位)
28年10月 佐世保知港事兼予備艦部長、29年10月 横須賀海兵団長を歴任する。


30年6月「高砂」回航委員長としてイギリスに出張し同艦を無事回航、12月 「高砂」艦長に補す。
31年11月「八島」艦長、32年6月 呉海兵団長を歴任、33年5月 海軍少将に進級し佐世保港務部長兼佐世保予備艦部長に補せらる。
34年7月 常備艦隊司令官、35年7月 呉鎮守府艦政部長を歴任、36年9月 呉港務部長兼呉予備艦部長に補し日露戦争時も同職の任にあたった。

日露戦争の頃の内田正敏
日露戦争実記より
38年11月 海軍中将に昇りに待命仰せつけられ、39年2月に予備役に編入となった。
日露戦争の功により男爵を授爵、明治43年には貴族院議員に勅撰され、また日本海員液済会理事をなり海事思想普及に努力した。
大正11年5月11日逝去、享年72歳。
妻 千代猪とに子は無く矢部善作の二男 榮を養嗣子に迎えた。


参考資料
書籍名著者出版社
人事興信録 初版人事興信所人事興信所
征清武功鑑 五編国乃礎社
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
日露戦争実記博文館
平成新修華族家系大成霞会館華族家系大成霞会館
陸海軍将官人事総覧 海軍篇外山操芙蓉書房
inserted by FC2 system