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山口県出身海軍々人

ミスター単縦陣
坪井航三 氏名
坪井航三(つぼい こうぞう)

最終階級
海軍中将 従三位勲二等功三級 男爵
生没年
1843年4月6日〜1898年2月1日
天保13年3月7日〜明治31年2月1日
<草創期>

■経歴
周防国三田尻(現:山口県防府市)に医師原顕道の二男として誕生し後,医師坪井信道の養子となる。
医官として軍艦「庚申丸」「癸亥丸」に乗船し馬関戦争に、また四鏡戦争にも参加し遂に医学を捨て武人への道を歩む。
維新の後、長州藩が軍艦「鳳翔」を朝廷に献上するに際し之に従い明治4年6月を以て海軍大尉に任官となり「甲鉄艦」副長を命ぜられるが9月より海軍修業の為岩崎彌太郎と共に米国艦隊の旗艦「コロラド」で乗艦実習。
5年4月より米国海軍少将ジョン・ロジャースに従い渡米しコロンビアの海軍兵学校に入り戦術を修得。
7年7月に帰朝するや海軍少佐に昇任し「第一丁卯」艦長を命ぜられ長崎出張所、総督府、横須賀造船所に勤務、この間には「迅鯨」「天城」の艤装掛や「扶桑」「金剛」「比叡」の艤装向取調委員も務めた。
12年2月「迅鯨」艦長、8月には転じて「磐城」艦長を命ぜられ翌年7月聖駕還幸の供奉として神戸に回航、14年1月より朝鮮に航海し6月杉孫七郎宮内大輔の差遣に同行し7月規定局勤務となり8月には海軍中佐に進んだ。
15年7月「日進」艦長となり再び朝鮮航海を命ぜられ16年8月「海門」艦長に転任する。 17年2月より軍事部出勤を命ぜられ第2課長となり恩給調査委員を務め12月横須賀造船次長に転じ事務整理に功績を残した。
18年6海軍大佐に進み19年1月艦政局次長兼艦政局兵器課長に補され士官学術検査規格取調委員を仰付られ20年1月火薬製造所長に転任。
22年4月「高千穂」艦長兼常備小艦隊参謀長、23年9月海軍少将に昇任し佐世保軍港司令官に就任した。
25年12月海軍兵学校長、26年12月海軍大学校長を歴任の後27年の日清戦争を迎える。
■ミスター単縦陣の海戦
6月に常備艦隊司令官に補され「吉野」(艦長 河原要一)「秋津洲」(艦長 上村彦之丞)「浪速」(艦長 東郷平八郎)の諸艦を率いて出征、豊島沖に於いて清国艦に遭遇し戦闘となり(豊島沖海戦)事実上の日清開戦が幕を開けた。
豊島沖海戦で圧勝、9月より「吉野」「浪速」「高千穂」(艦長 野村貞)「秋津洲」を率いて第一遊撃隊となり黄海海戦に参加し整然とした単縦陣の先頭に立って指揮し北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主導権を握ることで見事勝利に導いた。
当時の海戦でのセオリーは横陣とされていたが坪井は単縦陣の有効を主張、この黄海海戦において見事実証し以後単縦陣が海戦のセオリーとなった。
これらの事によりミスター単縦陣の渾名で知られ、戦役の功により功三級に叙され男爵を授爵し華族となった。
29年2月海軍中将に進み常備艦隊司令長官に補され30年4月横須賀鎮守府司令長官に転ずるが翌年2月日清の海戦を勝利に導いた海将はこの世を去った。
日露を前に没した川上操六や山地元治らと共に惜しむべき軍人の一人である。

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