home > 土佐軍人列伝 > 山地元治

土佐の独眼龍将軍

山地元治 氏名
山地元治(やまじ もとはる)


最終階級
陸軍中将 従二位勲一等功三級 子爵

生没年
1841年9月10日〜1897年10月3日
天保12年7月25日〜明治30年10月3日

草創期 歩兵
山地陸軍中将 〜幕末の動乱〜

隻眼となる
土佐藩士 山地元恒と仲(沖伊三八 二女)の長男として高知城西小高坂越前町に生まれる。
幼名を熊太郎、貞之助、後に山地忠七と称し維新後に実名の元喜を元治と改めた。
13歳の頃に竹で右目を突き、驚きと痛みで元治は泣きながら母 仲の元に帰ると
「武士の子がその程度の事で涙を流すものではない!」
と叱り且つ諭され、痛みに耐え再び泣くことはなかった。
これにより隻眼となり後に「独眼龍将軍」の勇名を持つ元となった。
また、土佐の方言で片目のことを「がんち」と呼ぶがそれをもじって「元治」としたと云われる。

母堂 仲

山地仲
山地仲

元治を語る上で母堂、仲の存在を語らない訳にはいかない。
元治幼少の頃より膝下に招き英雄豪傑の物語を語り、
「一身の利害を顧みず、主君には忠を尽くし、國恩に報いなければならない。」
と懇懇と説き聴かせた。
将軍壮年の頃、山内容堂に従い江戸に滞在中に母の重病の知らせを受けすぐに帰郷の手紙を出したところ
「母は公私を混同すべしと教えしことはなかりぞ」
との返書をしたため戒めた。
後日、容堂はこの事を板垣退助より伝え聞き
「此の母にしてこの子あり」
と嘆賞し、玻璃製の盃を賜り、仲の名とは別に容堂より「菊」の名を授けられた。
元治失明の時の話しになると
「心中では泣いたが、わざと声を励まして元気をつけた。」
と何時も話していたと云う。
明治42年8月12日、89歳で病没した。

蒲田梅屋敷事件
山内容堂の側小姓として仕え,この頃から容堂に
「忠七の一眼で睨むさまはなかなか凄い」
と語らしめるなど既に異彩を放っている。
文久2年11月13日、長州藩士 久坂玄瑞、高杉晋作ら11名による横浜襲撃計画が容堂の知るところとなり、知らせを受けた毛利定広の説得で襲撃を中止するという事件が起こった。
襲撃中止の後、、蒲田梅屋敷で酒宴となり席上には容堂の使者として元治をはじめ小笠原唯八、林亀一、諏訪助左衛門(重中)が派遣されたのだが、 そこへ長州藩士 周布政之助が酔って容堂を痛罵し、激昂した元治等と抜刀騒ぎとなった。
驚いた高杉や久坂等の仲介でその場は収まったものの、武士が主君を罵倒されたままで終わるはずもなく4人は容堂より周布への厳罰の督促の許可を得、長州邸では高杉等の奇策に惑わされず遂に周布の改易と毛利元徳より直々に容堂へ周布の無礼を謝罪するまでに導いた。

土佐藩 維新の魁
また土佐藩は容堂のもと公武合体論を藩論としていたが、時勢をよんだ元治は中岡慎太郎、板垣退助等と共に毅然と討幕論を主張し奔走した。
山地忠七 鳥羽伏見の戦いでは土佐藩は「戦争への不参加」を藩命として出していたが板垣退助との黙約により、
吉松速之助(秀枝)、山田喜久馬(土居平左衛門)、二川元助(阪井重季)等と共に
「万一戦争に負け、君公にご迷惑をおかけするようになったら、お互い腹をきるまで」
との約束を交わし戦端を開いた。
北村長兵衛(重頼)の砲兵隊も参戦>
この参戦により明治の土佐派の立場が決まった事などを考えると土佐藩討幕の魁となった元治達五人の功績は藩にとって大きなものであった。
その後の東北戦線では胡蝶隊々長として転戦し土佐藩大隊長兼大監察となり、功積に対して新政府から賞典禄百五十石を授けられた。

山地陸軍中将 〜新政府出仕 陸軍草創期〜

明治4年、御親兵として上京し陸軍少佐に任官(叙正七位)、御親兵8番大隊長を仰せつけられる。
5年7月 近衛6番大隊長、陸軍中佐に任じ(叙従六位)、軍務局分課、近衛局分課と転任する。
征韓論の際には板垣退助らと共に一度は下野するが元治の武人としての才能を惜しむ谷干城の働きかけにより復職した。

桐野利秋との刎頸の交わり
この頃に陸軍少将であった桐野利秋より
「君は敵と対するに鉄砲がなければどうする?」
と問われ
「刀剣がある」
と元治答えるに、
「ならば刀剣がなければどうする?」
と尋ねると元治は平然と
「鉄拳がある」と答えた。
桐野はこれを大いに喜び「我が意を得たり」と二人は刎頸の交わりを結んだ。
後年、日清戦争に出征する元治は桐野が既に亡き事を惜しみ、桐野もまた
「戦争の強きとは山地の如し」
と評しその武勇を讃えた。


西南戦争
9年 歩兵第4連隊長に補し10年 西南の役が始まると鹿児島征討軍に編入となり別働第3旅団参謀長を拝命、黒川通軌大佐の下出征する。
各地を転戦し6月の人吉峠の攻撃の際に戦弾を股に受け倒れるも、その剣を杖に部下を指揮した。

後に陪食の席上で話題が西南戦争に及ぶ事があったが、某将軍が
「当時、我が兵の死傷者は実に多かったが何か策はないものか」
と諸将に尋ねたところ元治は立ち上がり
「西南戦争では実に多くの兵が死んだが将官で死んだものは一人もいない。 兵が死んで将官が死なないという道理はない。その策を知りたいのならば各自の心に問うて見よ」
と各将軍が己の保身の為の策で兵を死なせているのではないのか、という事を戒めた。

凱旋後、11年1月 戦功により叙勲四等、歩兵第3連隊長に補し11月 陸軍大佐に進級、次いで12年1月 歩兵第12連隊長に転じた。
13年 従五位に叙し、14年2月 陸軍少将に任じられ熊本鎮台司令官に補し(叙正五位)、15年2月 大阪鎮台司令官(叙勲三等)、18年5月 歩兵第2旅団長を歴任。
19年12 佐久間左馬太とともに陸軍中将に昇り従四位に、また20年5月 維新の功績などにより華族に列せられ男爵を授爵。
21年5月 第6師団長に補し従三位勲二等に、23年6月 第1師団長に転じた。

武人は政治に関わらず
第一次伊藤博文内閣で農商務大臣の谷干城が条約改正問題で大臣を辞して空位となった際、政府より元治を大臣にと招かれたが
「余は天皇陛下の武官なり、君命とあらば内閣であれ民間であれ一撃粉砕せんのみ、余は君命の他になにものも存ずるを知らず」
と毅然と辞退した。

こんな事もあった、板垣退助とは征韓論に敗れ共に下野したが、元治は復職し板垣は在野のまま自由民権運動を起こしていった。
二人の考えは違えどお互いに認め合い親交は深かったのであるが、ある時某陸軍大臣が将軍に板垣への伝言を頼んだことがあった。
当然、二人の親交の深さを知っての事であったが元治は
「伝言は簡単なれど軍人たるものが政治上の事を口にするのは余の精神が許さぬ」
と断った。

また、如何なる宴席と言えど、隣に政治を談ずる者がいれば直ぐに席を立ったという。
これらのエピソードでも分かるように、元治は軍人が政治に介入する事を快く思っていなかった。
何より己の天分を知り、政治に関わっていく軍人が多い中にあってその才、機会に恵まれながらも「武」の道一筋に進んだその生涯はあまりに気高い。

山地将軍

山地元治と乃木希典
24年、山縣有朋や桂太郎等との確執により野に下っていた乃木希典を軍に復帰させたのが元治であった。
従来より乃木と親しかった将軍は乃木の人物才幹を惜しみ直に山縣を訪ね
「乃木ほどの人物を野にさらしておくのは愚の至り、君に異存がなければ、第一師団長の自分が乃木を預かりたい。他のものの下につく乃木ではないが自分とは従来の関係から折合いもつこう」
とかけあい、山縣の承諾を得て25年、乃木は歩兵第1旅団長として復帰し、日清戦争で勇戦し元治と共に武名を上げたのである。
休職中の乃木を復帰させ見事な活躍をさしめた烱眼を人々は讃え、乃木は後々まで元治を敬愛し追慕してやまなかったと云う。

山地陸軍中将 〜征清の役〜

第二軍出征

山地元治
第一師団長山地元治
大寺安純
第一師団参謀長大寺安純
乃木旅団長
第一旅団長乃木希典
西旅団長
第二旅団長西寛二郎

明治27年7月 日清開戦となると第2軍麾下の第1師団長(指揮下に参謀長大寺安純、旅団長として乃木希典、西寛二郎、)として9月に東京を出発し10月 清国盛京省花園河口に上陸する。
金州、大連湾、旅順、田庄台などを攻略した。

第二軍司令部
第二軍司令部(二列目向かって右より佐久間左馬太、山地元治、大山巌、黒木為驕A伏見宮貞愛親王)

秋山好古
秋山好古

秋山好古の建言
坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古は騎兵の特性を理解されずせっかくの騎兵大隊が細分化され戦場に投入される事に不満を抱いていた。
今回の戦役で第1師団指揮下に編入された際、元治にその事を献言した。
元治は献言を採用し騎兵を師団直属とし、さらに歩兵1個中隊を指揮下に入れた。
秋山支隊が誕生した瞬間であった。
後の日露戦争での秋山好古率いる騎兵の活躍もこの時の元治の英断がなければ無きものであった事を思うと、元治は日露戦争に於いても日本軍を救っていた。

難攻不落の要塞を撃破
11月5日 困難なる行軍の後、金州の目前にせまり露営した時、一人の外国人従軍武官が元治を訪れ快談の後に
「明日金州城内で会おう」
と言われたが外国人武官からすれば金州城は鉄壁であり、攻略には3〜4日かかると考えていたため戯言のように受けていた。
ところが翌6日、元治は行動を起こすや砲門を開き城内を砲撃させるやたちまち城門を破り前日の言葉通り1日で金州を落としてしまった。
勢いに乗じ、7日には大連湾に背面より迫りこれも瞬く間に攻略した。

金州にて捕虜尋問する山地将軍
金州城内にて捕虜尋問する山地将軍
第二軍(金州)
金州城内にて第二軍司令部(向かって前列右から四人目が山地将軍)

旅順には金州、大連湾から逃亡した兵が加わりますます敵兵の数は増えていたが
「先の戦いなどは子供の戯れであり、今回がやっと本当の戦闘である」
と意気高揚していた。
旅順攻撃の前日、アメリカの新聞記者が元治に
「旅順の陥落は幾日後か」
と尋ねられ
「明日」
と即答し記者を驚愕させた。
なぜなら旅順は東洋随一の要塞と称せられ2万の兵を以てしても陥落には4年はかかると言われていた為である。
金州での時と同様、元治には長年の戦場の経験から戦いの趨勢を見極めていたのであろう、戦いが始まるや自ら戦場に出て快進撃をかさね遂には旅順をもわずか一日で陥落させた。
アメリカ人新聞記者は驚き「天下の最勇将山地閣下」と激賞し、本国に通知した。

椅子山での将軍
旅順口椅子山占領後、山地将軍の元集合する将校

旅順口事件について
十七日、土城子付近において配下の騎兵数名の清国兵に凌辱された屍が打ち捨てられていた。その残忍さは目を抉り、口を裂き、腹を割り、肉を刻み、骨を路傍に棄てるといった凄惨な状況であった。。
これを目の当たりにした配下の将や兵は耐えがたい光景に切歯し、元治をして「旅順の清兵を殲滅せよ」との号令に至る。
旅順においても清兵は国際法違反の便衣兵となり、市民になりすまして攻撃を仕掛けてきたため混戦となったが日本兵は次々と清兵を倒していった。
米国記者のクリールマンはそれを誇張して世界に伝えた為、「旅順虐殺」と一時輿論は騒然とさせたが、事が便衣兵の掃討であったとの真相が公になるや輿論は収まり その間の将軍の私なき毅然とした振る舞いに人々は一層服したと云う。

山地陸軍中将 〜惜しまれる最期〜

軍人とは
日清戦役の功により勲一等功三級に叙し旭日大綬章を賜り子爵を授けられる。

日清戦争の褒章の議の際に参加した将軍達は師団や部下の功労を語り、与えるべき勲章を論じている中独り沈黙していた将軍はおもむろに口を開き
「軍人とは戦場に出て戦う事が職業である。敵を討ち、城を陥落させ、軍を破り、その功績がいかに大なれどこれはむしろ軍人としての務めである。 平時は国家が莫大な資財を投じ軍を養い、陛下の殊遇をこうむり、社会において名誉を受けている。 いざ戦時においては辺境の地で功績を立てる事はもとより、戦場にあってはまさに恩に報いる時、砕身粉骨して敵にあたるべきであり、賞のため勲章のためなどではない。 しかし、戦没者達は使命の為に身を尽くし、君恩に報いるに於いては人として終わった。 余は戦いに生きて帰った者達以上に、死して異国の地に屍をさらすこととなった士達に手厚い厚意があらんことを望む」
と終えるや、聞くものは皆感嘆した。

戦後は旅順攻略の英雄であった将軍の祝宴を開こうとする者多かったが「余は祝賀を受くる事を好まず」とほとんど辞退していた。
主人公として出席した第1師団の二十一会なる催しには千人に上る人々が集まり、大山巌、野津道貫、川上操六、伊東祐亨をはじめ日清戦役に関係した文武官が来会していた中「山地将軍万歳」と叫ぶ者があったが「イヤ万歳は後日にして呉れたまえ」と制した。

独眼龍の日清戦争評
山地元治 元治にとって日清戦争とは戦争と云うにも憚られるものであった。
戦後の言葉にそれが見える
「今度の戦争は余りにも清兵の弱かりし為、戦争と云う程の戦争も出来ず、云はば一種の児戯に過ぎざりしなり」と。
あるいは部下の将校等に厳訓する
「戦争とは斯くの如きものと思ふ勿れ」
幕末の動乱を生き抜き、戊辰戦争では会津、西南戦争では薩摩と云う、おそらく世界でも屈指であろう最強の武人達と戦ってきた将軍からすればその言も当然の事であったかもしれない。
元治は云う「余の祝宴を受くべき時は、尚ほ今後にあればなり」
次なる風雲をすでに予期していた将軍であったが残された時間はもう僅かしかなかった。

29年 西部都督に任ぜられ、翌30年の10月3日検閲の為、山口衛戍に向かう船に乗り三田尻に到着後、旅館にて脳溢血のため薨去。
享年57歳、特旨を以て従二位に叙せらる。
三国干渉を目の当たりにし、いずれロシアとの戦いは避けられぬ事と覚り既に対ロシアの舵とりを始めた矢先の出来事であった。
早逝しなければ陸軍大将、伯爵になったであろうと言われる。
また藩閥政治により人材が埋もれるのを惜しみ、不遇の人材を引き上げる努力を惜しまなかった。

母堂、仲は武人として戦場で倒れる事なく、畳の上で命を落とした元治の無念を思い悲しんだ。
かつて容堂公が「この母にして忠七あり」と評した通り武家の真髄を体現した親子だったのではないだろうか。

その死から七年後、日本とロシアは開戦。
山地将軍が存命であればどのような戦いをしたのであろう。

日清戦争後、元治はこう語っている。
「我々軍人たる者のまさに邦家の為に斃るべきは実に今後にあり。決して一日も安閑として過ぐべきの時にあらず」

最期まで武人として徹した生涯であった。


参考資料
書籍名著者出版社
維新功臣伝谷口流鶯松声堂
英雄の片影大月ひさ文学同志会
海陸勇戦軍人名誉の話江東散士開文堂
近世偉人百話 中川克一至誠堂
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
故陸軍中将山地元治君佐藤正金港堂
小文章北村紫山(川崎三郎)博文館
出師軍歌三田村熊之介(鉄街隠士)高田文賞堂
征清軍士忠勇譚内田清四郎淡海堂
征清譚林 上巻河村透磊々堂
征清独演説服部誠一(撫松子)小林喜右衛門等
征清武功鑑 弐編国乃礎社
支那征討英傑伝堀本柵東雲堂{ほか}
帝国軍人亀鑑楓仙子東雲堂
帝国将校列伝元木貞雄(学海)榊原文盛堂
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
土佐図書倶楽部 第九十号土佐図書倶楽部
土佐図書倶楽部 第九十一号土佐図書倶楽部
土佐の史蹟名勝武市佐市郎日新館書店
土佐藩戊辰戦争資料集成林英夫高知市民図書館
土佐名婦伝山崎新市土佐高等女学校同窓会
内外逸事譚千頭清臣嵩山房
日本捕虜志長谷川伸新小説社
乃木希典 高貴なる明治岡田幹彦展転社
日清韓三国英名伝 東洲山人魚住嘉三郎
日清戦争実記博文館
日清戦争 秘蔵写真が明かす真実檜山幸夫講談社
日本陸軍将官辞典福川秀樹芙蓉書房
兵営大気焔橋亭主人著富田文陽堂
平成新修華族家系大成霞会館華族家系大成霞会館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
旅順虐殺事件井上晴樹筑摩書房
inserted by FC2 system