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山岡熊治 氏名
山岡熊治(やまおか くまじ)


最終階級
陸軍砲兵中佐 従五位勲四等功三級

生没年
1868年10月25日〜1921年8月7日
明治元年10月25日〜大正10年8月7日

山岡砲兵中佐 経歴


高知縣土佐郡中須賀村(現:高知県高知市中須賀町)に生まれる。
兄重壽は砲兵大佐、弟重厚は陸軍中将までのぼった軍人兄弟の二男である。
郷里の小学校に通い高知第一中学校で学び、この後軍人を志し陸軍士官学校に入学し砲兵科を学ぶ。
卒業後、東京野戦砲兵所属、陸軍大学に入学の後近衛砲兵参謀本部に着任する。


日露戦争が始まると乃木希典第三軍の参謀として出征し旅順の攻防戦開始の前、八月十六日軍使としてロシア軍を訪れ参謀長レース大佐に非戦闘員避難の勧告と乃木将軍のステッセルへの投降書を渡している。
翌日ロシア軍より投降拒絶の軍使が来るにいたり、旅順攻撃が幕を開ける事となった。
旅順攻略の後奉天会戦に参戦。
奉天背後に向かう為に北進し後民屯、馬家子、平拉保で敵を撃破していったが八月三台子での戦いにおいて司令部頭上で敵砲弾が爆発し弾片が右こめかみより左目に貫通し後送治療を受けるも熊治の目に光が戻ることは無かった。

戦後退役、戦功により中佐に進み功三級金鵄勲章、勲四等双光旭日章を授けらる。
以来、盲人教育の為に奔走し盲人協会々長や残桜会理事などを務めた。
大正10年7月より肝臓炎の為、東京市街上落合村の自宅で治療を受けていたが翌月7日午前8時50分逝去。
妻は細川潤次郎の四女淑子、長男長女は夭折、竜次、彪一の二子あり。


参考資料
書籍名著者出版社
征露写真画帖第七編 旅順陥落写真帖実業之日本社
大正過去長 物故人名辞典稲村徹元ほか東京美術
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
日露戦争実記博文館
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