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明治の終わりとともに散った将軍

横山傳 氏名
横山傳(よこやま つたえ)


最終階級
海軍少佐 従六位勲四等功四級

生没年
1871年?〜1904年8月10日
明治4年頃?〜明治37年8月10日

横山海軍少佐 経歴

候補生にして抜群の武功
農を業となす横山岩次の長男にして高知県土佐郡下知村に生まれる。
軍人を志し明治18年より郷里の海南学校に学び、22年海軍兵学校に入り26年卒業し少尉候補生に任ぜらる。
翌年の日清戦争では「比叡」乗組として従軍し、黄海海戦において速力の鈍い「比叡」は先航の「橋立」と離れ敵中に孤立しかけてしまう。
この時艦長桜井規矩之左右の決断で「定遠」「来遠」の間を航過する敵中突破を決行、多数被弾し火災の発生した艦に「来遠」が猛進してきたが前部上甲板に居た傳は機関砲四門を指揮し一斉猛射を試み艦上の敵を一掃し「来遠」を退かしめた。
損害のため本隊と行動が取れなくなった「比叡」より傳は「本艦火災ノタメ列外ヘ出ル」と信号旗を掲げ戦列より外れ翌日沈没の危機に瀕しながらも無事凱旋を果たした。
この海戦中「比叡」の傳の抜群の働きを認められ功五級金鵄勲章、勲六等瑞宝章を叙賜、日清戦争中候補生にしてこの栄典を授かったのは傳ただ一人であった。

二度目の黄海で壮烈な戦死
30年 中尉、31年 大尉に進み海軍兵学校教官に補し、次いで第3艦隊参謀に転じる。
日露戦争が起こるや第3艦隊 片岡七郎司令長官の幕僚として旗艦「日進」に乗組み8月10日黄海海戦に於いて艦橋に在り対戦航側に望遠鏡を携え敵状を視察し敵艦隊被害の状況を報じていたが敵弾の命中により上半身は後部砲塔上に吹き飛ばされ、下半身は見る影もなく粉砕され戦死した。
享年33歳、即日海軍少佐に昇進し功四級金鵄勲章、勲四等旭日小綬章を授かった。
黒岩氏との間に二子あり、長男一郎は大東亜戦争の敗戦によりミズーリ艦上で行われた降服文書調印式に出席した海軍少将である。
傳の墓所は皿ヶ峰の南方の生い茂る雑草の中にある。


参考資料
書籍名著者出版社
征露戦報実業之日本社
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
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