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吉田数馬 氏名
吉田数馬(よしだ かずま)


最終階級
近衛砲兵中尉

生没年
1847年〜1910年8月12日
弘化4年12月17日〜明治43年8月12日

吉田海南学校長 経歴

土佐の海南学校の校長として質実剛健の校風を樹立し多くの俊才を世に輩出した教育界の偉人吉田数馬も元は近衛軍人であった。


吉田藤蔵の長男として長岡郡十市村で誕生する。
祖先を長宗我部元親の家臣吉田周孝とし数馬は常にこの長宗我部の名将の末裔である事を誇りとしていた。
後に現在の高知市土居町に居を移し生涯をここで過ごした。
同町出身の武市熊吉、中西茂樹や隣家に住んでいた後の男爵片岡和利らとは特に親交あつく、中西と数馬はこの付近のガキ大将で随分と悪戯をやったらしい。
十三四歳の頃より土佐勤王党に参加する山本三治(桑津一兵衛)の下で漢籍や剣道を習いはじめ、その元気で快活な数馬を坂本龍馬は特に愛し始終連れまわった。
この坂本龍馬という英雄の片鱗に触れ多くの事を学んだ数馬は海南学校校長となって後もその偉風を伝え、海南学校の制服は龍馬の風采をモデルにしたものだったと云う。

吉田数馬(戊辰戦争時代)
戊辰戦争の頃の数馬(向かって左)


文久の頃より致道館で文武を修め慶応元年には剣道指南助手を命じられている。
戊辰戦争が始まると迅衝隊第三番小隊に属し小笠原謙吉の指揮下で甲州勝沼、今市、白河、二本松、若松と転戦し活躍、戦後に留守居組に抜擢された。
土佐藩兵時代には北村重頼の砲兵隊で頭角を現し砲兵曹長に任ぜられる。

明治4年には御親兵創設となり5年に近衛兵に改められたがこの中でも数馬は砲兵少尉、中尉と順調に昇進していたが明治6年の征韓論により多くの土佐将兵同様下野し二度と軍職に復帰する事は無かった。


下野後の数馬は友の武市熊吉、中西茂樹らの岩倉具視襲撃の末の刑死、征韓論以後の土佐勢力の衰退などを目の当たりにし「土佐人の急務は功名に急ぐのではなく教育によって有為の人材を育成し、他日大いに国家に貢献すべき」との国家百年の大計を確立するとの信念に至り明治9年には山地元治、北村重頼に相談し旧藩主山内豊範に土佐に学校創設を進言した。
数馬等の進言を用いた豊範により既に土佐の子弟の教育の為に東京に創設されていた海南私塾を本校とし土佐にこの分校を創設されるに至った。
明治17年には本校閉鎖合併し海南学校となり初代校長となった。
特に有名な海南学校出身者には山下奉文(陸軍大将)、永野修身(元帥海軍大将)、大谷幸四郎(海軍中将)などがいる。

日本一の模範学校と称せられた海南学校を創り、多くの生徒に敬愛された数馬は明治43年8月12日の朝5時に脳溢血の為63歳の生涯を閉じた。

吉田数馬(壮年時代)
壮年期の数馬


参考資料
書籍名著者出版社
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
吉田数馬先生海南学校同窓会磯部甲陽堂
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