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高知県初の陸軍大将

由比光衛 氏名
由比光衛(ゆい みつえ)


最終階級
陸軍大将 従二位勲一等功二級

生没年
1860年11月27日〜1925年9月18日
万延元年10月15日〜大正14年9月18日

士官生徒五期 歩兵
由比陸軍大将 経歴

土佐藩時代
土佐藩士 由比光索と小野氏(駒)の長男として土佐国神田村高神に生まれた。
幼名を竹馬、弟に教育家の由比質がいる。
母を早くに亡くしその教育は祖母遊佐に担われた。
光衛は体こそ小さかったものの元来腕白で神田川で魚を釣っている時誤って釣り針が手深くに刺さった時などは自ら短刀で切り開き針を取り出して「さすが武士の子」と周囲を感心させた。
嫌不学舎を経て海南学校に学び、この頃には紺袴に下駄履きで英語の単語帳を手に道々大声で復習しながら往復して人々を驚かせた。

富豪 三菱は頼らず
明治10年 幼年学校、ついで陸軍士官学校(同期には渡邊湊がいる)を卒業し15年 歩兵少尉に任官する。
この頃、三菱の大物 豊川良平は光衛の才気と所行に感銘を受け、その進言により岩崎弥太郎の一族 岩崎國太郎の妹 万寿を嫁がせた。
しかし、光衛はその後も三菱との繋がりも頼らず清貧を貫き結婚直後から債務取立などにより苦労をしたと云う。
21年より陸軍大学校で学び首席で卒業、恩賜の軍刀を賜り参謀の業務に服することとなった。
陸軍士官学校教官、大本営参謀を務め日清戦争には第2軍参謀として出征し大山巌の下働いた。
戦後イギリスに駐在し三国干渉あるや加藤高明全権大使とともに奔走、帰朝後の33年 少佐の時に北清事変が起こり第5師団参謀として再び戦渦に身を投じ山口素臣師団長を支えた。



由比光衛(大尉時代)
大尉時代の光衛

カーキ軍服採用を進言
日露戦争が開戦となると奥第2軍参謀副長として出征し南山、得利寺、遼陽において敵をくじき、首山堡の戦いでは敵の目標にならず損害を防ぐため軍服の上にカーキの外被をつけて戦う事を発案し瞬く間に全軍に拡がりこれがカーキ軍服の始まりとなった。
奉天会戦には第8師団参謀長として参戦し戦功を立てた。
41年3月 近衛歩兵第1連隊長に補し、たび重なる演習の都度慰労会を催したがその会費は全て自分の俸給で賄っており部下からの信頼も篤かった。
42年5月 陸軍少将に進み第27旅団長、44年10月 参謀本部第1部長を歴任。
大正3年 陸軍中将に昇り陸軍大学校長を拝命、4年1月 第15師団長、6年8月 近衛師団長を歴任。
師団長時代には師団演習には最後まで野宿を重ね兵士と労苦を共にし幕僚を感激させた。

高知初の陸軍大将へ
大正7年8月 シベリア出兵に浦塩派遣軍参謀長を務め、翌8年6月 青島守備軍司令官の時に遂に高知県初の陸軍大将に栄達した。
その後、10年 に軍事参議官となり翌年予備役に編入された。
隠居後も光衛を惜しむ政府要人や将軍などが訪れ朝鮮或いは台湾総督として再出馬を要請したが病の為に再起できず大正14年9月 喉頭疾患の為66歳で逝去した。


参考資料
書籍名著者出版社
稿本 鴨田地区史 人物篇3鴨田郷土史編纂委員会鴨田郷土史編纂委員会
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
土佐の史蹟名勝武市佐市郎日新館書店
陸海軍将官人事総覧 陸軍篇外山操芙蓉書房
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