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海軍の至宝 高知県初の元帥

島村速雄 氏名
島村速雄(しまむら はやお)


最終階級
元帥海軍大将 正二位勲一等功二級 男爵

生没年
1858年10月26日〜1923年1月8日
安政5年9月20日〜大正12年1月8日

海兵七期
島村元帥 〜海軍草創期〜

土佐藩時代
土佐藩白札郷士 島村左五平と妻 鹿子の間に四人兄弟の二男として誕生、幼名を午吉と云う。
5、6歳の頃に父の言うことを聞かなかったため柱に縛り付けられた事があったが3時間以上たっても泣きも、詫びもせず結局鹿子が縄を解いてやった。
幼時より嫌不学舎、致道館に学び、また漢学者 武政大道の寺子屋にも通い勉学に励んだ。
16歳のとき、速雄の才気を耳にした司法省の役人から養子の話しがあったが、
「男子として生まれたからには自分の力で生きてみたい。どんな名家でも養子にいくのは御免こうむりたい」 と断っている。

島村鹿子
母堂 島村鹿子

兵学校七期に島村あり

兵学校時代の島村
兵学校時代の速雄

明治7年に東京の海南私塾で2ヶ月ほど学んだ後、海軍兵学寮(9年 海軍兵学校に改称)に第七期生として入校。
この中には加藤友三郎、吉松茂太郎、藤井較一など後に大将となる人物がおり親交を結んだ。
兵学校では常に首席であり、「兵学校七期に島村あり」と言われるほど名を知られるようになった。
また180cmもある巨漢の速雄は当然目立つ存在となり、薩摩出身者に目をつけられ鉄拳制裁を受けたが決して怯むことなく、結局薩摩出身者達は自らの非を覚り以後は速雄に敬意を持って接するようになったと云う。
12年9月より練習艦「筑波」乗組を命ぜられ、アメリカ西海岸、カナダ、ハワイに遠洋航海し初の海外体験をする。

海軍戦術研究の先駆者
13年12月 海軍少尉補に任ぜられ14年に軍艦「扶桑」乗組となり、同艦の乗組員だった斎藤実とは特に後年まで信頼しあう仲となった。
16年に海軍少尉に進み17年1月「浅間」乗組に補し、5月には艦の副長であった山本権兵衛に評価推薦され砲術教授に任命されている。
18年6月 海軍中尉に昇進、19年4月 参謀本部海軍部第1局課員に補し7月に海軍大尉に進んだ。
当時海軍内には海軍戦略戦術に通じる者もおらずその研究資料も乏しい中、戦術をまとめた論文を発表したり戦術の実地演習の演習法を考案したりと海軍の戦術の進歩に貢献していく。


英国留学時代の速雄

海兵七期
21年6月 イギリス留学を命ぜられイギリス海軍の研究を行った。
この頃にマルタ島で乗馬中に落馬事故を起こし耳鳴りの後遺症が残ったのだが、このことが大げさに日本へ報告されたため縁談のあった仁礼景範中将の令嬢春子との結婚の話は沙汰止みとなった。
24年2月 帰朝後は海軍参謀部に出仕、巡洋艦「高雄」の分隊長兼砲術長を経て26年3月 常備艦隊参謀に補せらる。
当時の島村の大尉という階級から考えてこれは異例の大抜擢で、常備艦隊司令長官の伊東祐亨も速雄に全幅の信頼を寄せ何につけても意見を聞いたと云う。

島村元帥 〜征清の役・北清事変〜

征清の役
日清開戦となり27年7月19日 連合艦隊が編成され司令長官は伊東祐亨、参謀長に鮫島員規、速雄は参謀心得として旗艦「松島」に乗組み鮫島参謀長もまた島村の能力を認め説を通させた。
司令部では調和を保ち伊東司令官をよく補佐した。
黄海海戦では、敵艦「超勇」が集中砲火を受け死に体となっているのを見て「もう砲撃は止めにいたいませんか」と伊東司令官に進言している。
12月9日 少佐に進級し威海衛の戦いで敵将 丁汝昌に降伏勧告を行うよう伊東長官に士道を説いて進言したのもまた速雄であったと云う。
凱旋後、軍令部局員と兼ねて海軍大学校で教鞭をとり、30年5月イタリアへ駐在武官として派遣され駐在中の12月 中佐に昇進した。

日清戦役の連合艦隊司令部
向かって(後列左端)伊東祐亨長官 (隣)出羽重遠参謀長
(前列左端)千代田艦長内田正敏 (隣)武田秀雄大機関士 (2人おいて)島村速雄参謀

島村中佐
中佐時代の速雄

22歳の年の差結婚
帰朝後の31年軍令部第2局長心得となって間もなく、
元来「艦船に乗って御奉公する海軍軍人であるので妻子ないほうが良い」
との考えで独身主義を通してきた速雄であったが
「老いた母の世話をしてくれる人が必要だ]と考えを改め高知県士族近藤正英の長女の菅尾を娶ることにした。
島村41歳、菅尾19歳の22歳の年の差夫婦であったが子宝にも恵まれ円満な結婚生活を送った。

島村家族
<写真右より> 長女・良子 夫人・菅尾 二女・幸子 三男・忠雄 長男・初太郎 速雄 二男・和男

北清事変
32年9月 大佐に進み軍令部第2局長を経て巡洋艦「須磨」に補せらる。
33年6月 北清事変が起こるや渤海湾北西大沽の警備を命ぜられ司令官として指揮を執ることとなり陸戦隊を率いて活躍した。
事変に於いて発揮した武勇は日本陸海軍の価値を世界に示し称賛を得ることとなり速雄の活躍もその一端を担った。
また陸戦隊を率いた速雄自身も目覚ましい働きで日本軍の規律の正しさ、根気強さを連合軍内で発揮しイギリスのシーモア海軍中将より感謝状を貰っている。

島村元帥 〜日露戦争〜

日露戦争の頃の島村
日露戦争の頃の速雄

連合艦隊参謀長
ロシアとの戦争が避けられぬものとなると海軍は東郷平八郎を司令官とする連合艦隊を組織した。
速雄は日清戦争を共に戦い「海軍の長者」として尊敬している伊東祐亨軍令部長の推薦のもと連合艦隊参謀長に任命された。
連合艦隊の最初の使命はロシア太平洋艦隊の殲滅である。
速雄は旅順閉塞作戦、黄海海戦などにおいて参謀の有馬良橘、秋山真之ら幕僚をよくまとめ東郷司令長官を補佐したが黄海会戦の後、同海戦での駆逐艦隊の働きが悪かったので駆逐艦隊司令の全交代を進言し自らの更迭も願い出た。
37年6月 海軍少将に進級する。

海の如き深謀
「懲罰人事を断行する以上は発案者でもある自分も責任をとる事で司令部の責任も明確にする。」
として自らは第2艦隊第2戦隊司令官に転任した。
これには旅順港閉塞作戦の失敗と戦艦、艦艇の喪失事故や黄海海戦の駆逐艦隊の夜襲の失敗が 東郷に及ぶのを恐れたため自ら責任を負ったとも云われる。
自らの後任には加藤友三郎を、駆逐艦隊司令官には鈴木貫太郎を推薦し司令部を去っていったが 速雄の推薦した両人の活躍を見るとその見識の高さが窺える。
また自らも「軍事の天才」と言われていたにも関わらず「作戦は天才に任せる」と秋山真之を作戦参謀に推薦し連合艦隊の作戦すべてを任せたのも、体調を崩し戦線を離脱した有馬良橘の意を汲んだ島村であった。

第二艦隊第二戦隊司令官に転任後、哨戒任務などの裏方にまわっていたが来るべきバルチック艦隊との最終決戦においてどこで迎え撃つか作戦会議が開かれ各艦隊司令官も招集された。
バルチック艦隊の航路は津軽海峡、宗谷海峡、対馬水道に絞られていたが津軽、宗谷海峡勢が多数を占める中、汽艇故障の為に遅れた速雄が到着し対馬水道説を主張するや場の空気は一転し速雄等の案を採用。
かくしてバルチック艦隊は対馬水道を航海し迎え撃つ連合艦隊により壊滅するのである。
このエピソードでも日本海軍における速雄が如何に重きを為していたかが想像できる。

日本海海戦ではバルチック艦残存艦捕獲の際、唯一逃走成功した「イズルムード」への追撃を
「まあまあ、武士の情けだ」
と見逃し、また先の旅順閉塞作戦中には、戦機と焦る秋山真之が負傷者収容を打ち切って追撃しようとするのを見て 「瀕死の戦傷者を打ち棄ててゆくとは何事ぞ、とにかく作業を続行せんか」
と一喝している。

島村元帥 〜後進の育成・軍令部長時代そして最期〜

日露戦争が終わると、日本に初めて練習艦隊が正式に組織され速雄は初代司令官となった。
39年11月 海軍兵学校校長に、40年4月 第二回万国平和会議に日本海軍の代表としてオランダのハーグへ出張している。
41年8月 中将に進むとともに海軍大学校校長に補せらる。

第二回万国平和会議日本全権
第二回万国平和会議日本全権 前列右端が速雄で左より二人目には秋山好古の姿も
練習艦隊司令官時代の島村
練習艦隊司令官時代の速雄

謙譲の美徳の体現者
この頃、博文館の雑誌『太陽』が22周年を記念して企画した
「次代の適任者は誰か」
という読者投票企画で速雄は「次代の連合艦隊司令長官」部門で第1位となった。
その記事の為にインタビューにきた博文館支配人、坪谷善四郎に対し
「日清戦争では伊東司令長官と参謀長を上に頂いて御奉公しただけでした。日露戦争での戦勝は東郷司令長官と名参謀たちによるもので、自分は特段の働きをしておりません。もし将来自分が連合艦隊司令長官を拝命し、業績を残して職務を全うしたなら、そのときに初めてお受けします」
と表彰を承諾しなかったが、このインタビューの様子が記事となり、謙譲の美徳の体現者としてさらに評価を高めた。

日本海軍の支柱
42年12月 第2艦隊司令長官に就任、イギリス国王ジョージ五世の戴冠観艦式に参加する。
またこの時イギリス留学時代の落馬事故の際入院していた病院に当時の看護婦がまだいると聞き、自ら土産を持って訪問したりしている。
44年 佐世保鎮守府司令長官に補し、大正3年 海軍教育本部長に転じるも一ヵ月足らずでシーメンス事件で辞任した伊集院五郎の後を受け軍令部長に就任。
第一次世界大戦が起こると海相となっていた加藤友三郎とよく日本海軍を統率し大正天皇より勅語を下賜されている。
それらの功により4年には海軍大将となり、5年男爵を授爵し華族となった。
また第一次世界大戦でアメリカが頭角を現し、新兵器などの出現が戦争を一変したことなどにより世界の軍拡競争の中で日本が生き残る為には所要兵力として「八八艦隊」建設を目標とした。
9年には「八八艦隊」案も予算が通過したのを見届け軍令部長を退き軍事参議官となった。
軍事参議官は閉職であったがその後も島村は日本海軍を影で支え続けた。

大正11年9月より筆を思うように運べない、外国語がうまく話せないなどの脳血栓の症状が出るようになった。
10月に倒れその後病状は悪化していき12年1月8日朝危篤となり薨去。
死に際し元帥府に列せられ高知県初の元帥となった。


参考資料
書籍名著者出版社
海将伝中村彰彦角川書店
元帥島村速雄伝中川繁丑中川繁丑
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
深謀の名将島村速雄生出寿光人社
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
土佐史談 289号土佐史談会
日露戦争実記博文館
日露戦争名将伝柘植久慶PHP文庫
日露戦争明治人物烈伝明治「時代と人物」研究会徳間書店
平成新修華族家系大成霞会館華族家系大成霞会館
陸海軍将官人事総覧 海軍篇外山操芙蓉書房
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