
土佐国土佐郡中島町に土佐藩士 竹内頼輔と母 田所氏の二男として誕生する。。
明治4年5月 御親兵8番大隊4番中隊に編入し5年3月 教導団に入り8月 見習伍長となる
6年3月 御親兵在役中の労を賞し5箇年間二人口を賜る。
11月 教導団歩兵科を卒業し7年3月 士官学校に入校、10月 少尉試補に任じ兵学寮附、東京鎮台附を歴任。
8年1月 少尉に進み叙正八位、転じて士官学校附となる。

10年 西南戦争が起こるや征討軍団附となり肥後高瀬に到着後、第2旅団附に次いで近衛歩兵第1連隊附に転じた。
4月 吉次峠の戦いでは夜襲に成功しこれを攻略、進んで木留駅で被弾し負傷の為高瀬病院にて療養。
回復後は行在所守衛の命を受け8月 近衛集成隊に転じ鹿児島平定により復隊する。
11年12月 中尉に進み士官学校生徒大隊副官に補し、12年8月 西南戦争の功により金五十圓を賜る。
13年2月 従七位に叙し14年4月 歩兵大尉に進み参謀本部管西局員に補せらる。
18年7月 参謀本部第1局員、19年3月 近衛歩兵第2旅団参謀 を歴任し20年4月 歩兵少佐に進級、勲六等旭日單光章を叙賜せらる。
21年1月 名古屋鎮台参謀に転じ、22年7月 叙従六位、11月には再び参謀本部第1局員に補す。
25年11月 軍務局第2軍事課長心得となり12月 歩兵中佐に進み軍務局第2軍事課長に補せらる。(正六位勲六等瑞宝章 叙賜)
竹内陸軍中将 〜日清日露戦役に出征〜

日清戦争では混成旅団兵站監を命ぜられ朝鮮国仁川港に上陸し成歓の戦い、次いで第5師団兵站監に転じ平壌の戦いに於いて円滑なる輸送線を築いた。
第1軍兵站参謀長に転じるも脳充血症を激発し広島予備病院に後送される、療養中は病をおして大本営、各大臣参列の席上また明治天皇の御前で朝鮮に於ける兵站の状況を長時間にわたり演説した。
病回復後、東京に戻り軍務局第2軍事課長に復任し28年2月 陸軍省所管事務政府員となり3月 歩兵大佐に進み軍務局第一軍事課長に補せらる。(7月 叙従五位)
10月 戦役の功により功四級金鵄勲章、双光章ならびに金五百圓を叙賜せらる。
明治29年11月11東宮武官、翌年東宮御教育係に補し、31年3月 歩兵第34連隊長、33年4月 陸軍少将に進級し歩兵第12旅団長に補せらる。
36年4月 台湾守備混成第1旅団長に補すも7月にに病の為休職する。
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