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軍人史跡 高知市旭

陸軍砲兵大佐 山岡重壽墓所

山岡重壽墓所
陸軍砲兵大佐 山岡重壽墓
所在地:高知県高知市北端町 高知学園短期大学裏山
◆土佐藩士 山岡重劼の子、山岡重壽、熊治、重厚の三兄弟はいずれも陸軍内に於いて頭角を現した人物である。
その長兄 山岡重壽と一族の墓が高知学園短期大学の裏山に現存する。

山岡一族の墓が並ぶ中に「陸軍砲兵大佐 正五位勲三等功五級 山岡重壽墓 大正十一年九月一日卒 享年五十八歳」と記された墓石、その隣には妻 富家の墓がある。
重壽は日露戦争にも出征しているが旅順開城の軍吏を務めた熊治や陸軍中将まで進んだ重厚に比べあまり知られていない。
この場所は墓参道も見つからず木々をかき分けながらようやく発見した。
先祖にあたる山岡半蔵ら代々の墓所も少し離れた場所にあるものの随分荒れている…
ほぼ間違いなく墓参に訪れる人もいないであろう、この墓所今後どうなるかが気がかりである。

山岡半蔵重矩については山本泰三著・土佐の墓に記載があり
先祖山岡伝助が馬医方桑島氏から承応三年(1654年)伝授を受け、代々桑島流馬医を受け継いだ。
半蔵も門人を教導し四人扶持切符二十石、新扈従馬医役を勤めた。
<山本泰三著 土佐の墓より>
山岡半蔵墓
山岡兄弟の先祖、山岡半蔵墓

陸軍歩兵少佐 木村漸一族の墓所

木村漸一族の墓所
木村漸一族の墓所
所在地:高知県高知市旭天神町 高知学園短期大学裏の田岡山
◆御親兵の創設より出仕、明治4年8月より陸軍中尉として軍歴を始めた古参の土佐軍人 木村漸の一族がここ田岡山に眠っている。
上記の山岡重壽の墓のある山とは隣あう山であるが昔は一つの山だったのではないだろうか?
木村漸一族の墓所
木村家祖先歴代之墓

木村家祖先歴代之墓の裏面には「明治三十一年七月十日改葬 当主 木村久壽弥太」とあり、複数あった先祖の墓石をこの墓石に改葬したものか、それとも東京の多摩霊園にある木村家墓所に改葬したのであろうか?
側面には木村家初代から八代目までの名と、もう片方の側面には一族の戒名が記されている。
初代 忠兵衛  二代 理左衛門  三代 宅右衛門  四代 弥太右衛門
五代 弥五郎  六代 久八  七代 儀七  八代 宅五郎
その隣にもう一基、木村姓の墓「木村宅之助清寛之墓」とあり、これも一族様の墓であろう。
久壽弥太は田岡亨一の二男で叔父の木村漸の養子となる、兄に実業家の田岡典章、弟に思想家の田岡嶺雲がいる。
漸は久壽弥太の叔父であるから亨一は漸の兄であったと云う事だろう。
この墓所には亨一、典章、嶺雲らの墓も建っている。

元近衛陸軍大尉 秋澤貞之墓所

秋澤貞之墓所
元近衛陸軍大尉 秋澤貞之ら一族の墓所
所在地:高知県高知市旭天神町 水源地山
◆高知市旭天神町の浄水場のある山、民家の裏には幕末には武市半平太の土佐勤王党血盟同志として国事に奔走。
戊辰戦争では迅衝隊小軍監として東征に参加し各地を転戦。
維新後、御親兵として上京し近衛砲兵大尉に任ぜられるも、他出中に皇居炎上事件が起こり責をとって辞職した元軍人 秋澤貞之の墓がある。
また、貞之の二男 秋澤芳馬は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に従軍し海軍少将にまでのぼった人であるがこの場所に墓は無かった。
<山本泰三著 土佐の墓参考>
山岡半蔵墓
秋澤貞之墓

陸軍歩兵大尉 川崎保衛墓所

川崎保衛墓所
陸軍歩兵大尉 川崎保衛墓所全景
所在地:高知県高知市長尾山町長尾山 
◆高知市旭のイオンから北西に見える長尾山、この山の東側山頂付近には「土佐偉人傳」武門偉勲の功にその名が見られる「陸軍歩兵大尉 正七位勲五等功五級 川崎保衛墓」がある。
題字は陸軍大将大島久直によるもので、墓石が亀の上に乗っている変わった形の墓である。
この川崎家の墓域にもあるのは昭和初期までの古い墓しかない、おそらくご子孫はいないのであろう。
保衛の隣には父の川崎慶蔵夫婦の墓にさらに隣には「土藩 川崎祥吉正栄墓」が並ぶ。
父慶蔵の墓碑の字は山内容堂の長男豊尹によるもので裏面にはその由来が書かれているものと思われる。
川崎祥吉は保衛の伯父にあたる人物らしく戊辰戦争に参戦後、御親兵に入り東京で没した人物である。
川崎保衛墓所
陸軍歩兵大尉 川崎保衛墓
≪川崎保衛 経歴≫
幼にして郷里の小学に学び後県の第一中学に入り成績常に優等を以て卒業、明治29年陸軍士官候補生となり30年卒業後金沢第九師団管下歩兵第19連隊に属し32年歩兵少尉に任じ小隊長に補す。
成績優良を以て連隊中の名誉委員に選ばれ第3大隊副官に任ず。
北進事変平定後、駐在軍に選ばれ新城守備隊長に任じ各地を巡歴しその形勢を視察す次いで歩兵中尉に進む。
37年陸軍大学校予選試験に合格するも日露開戦により出征。
7月旅順攻囲軍に加わり各地に転戦、第一回総攻撃では盤龍山東西砲台に突撃し鉄条網を破り塹壕を越え敵塁に肉薄する程の勇戦をし両砲台を占領する。
9月歩兵大尉に任じ第6中隊長に補し西砲台の守備につくも病の為一時帰国、38年2月再び出征し奉天において乃木軍の最左翼に属し敵を破りつつ北進。
歪樹子の戦いで高地に昇り双眼鏡で敵状を視察中敵の一斉射撃を受け弾丸二発頭部を貫通し斃れる享年三十歳。
<寺石正路著・土佐偉人傳 墓碑銘を参考>
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