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遼陽会戦で戦死した歩兵中佐

松原正治 氏名
松原正治(まつばら まさはる)


最終階級
陸軍歩兵中佐 従五位勲四等功四級

生没年
1850年〜1904年9月3日
嘉永3年〜明治37年9月3日

草創期 歩兵
松原歩兵中佐 経歴

軍歴
高岡郡佐川村の士族 倉知武太夫の第二子にして、兄の正修が家を継ぎ正治は明治11年 石川県士族 松原貫一の養子となった。
晩年は高知に帰り高知市南奉公人町に住んでいた。
明治初年 土佐藩兵として容堂に従い京に出て、次いで御親兵に入り教導団士官学校を卒業し8年 少尉に任じ(叙正八位)大坂鎮台附、名古屋鎮台附を勤める。
10年 西南戦争では別働第2旅団に属し歩兵第7連隊小隊長として日向各所に転戦し功あり、中尉に進み凱旋後、戦功により勲五等単光旭日小綬章と金若干を叙賜せらる。
名古屋、金沢の各連隊に歴任し18年 大尉に進み陸軍戸山学校を卒業する(叙従六位)。
日清戦争が始まると混成第12旅団に属し旅順攻略戦に参加し戦功により勲四等旭日小綬章を賜る。
29年 少佐に進み33年 歩兵第23連隊第1大隊長に補し(叙正六位)34年 予備役編入、特旨を以て従五位に叙せらる。
日露戦争では再び後備歩兵第12連隊大隊長として復帰し「かくならばかくせんことと嬉しくて心にかかる雲霧もなし」との辞世をしたため出征する。
首山堡の戦いでは勇戦し連隊長の渡邊勝重が負傷するや代わって指揮を執り2個大隊を率いて遼陽城に迫った。
しかし、ロシア軍の頑強なる抵抗の前に奮戦するも敵弾に貫かれ壮烈な戦死を遂げた、享年54歳。
正治達の活躍により此の日遂に遼陽城の占領に至ったと云う。
戦功により功四級金鵄勲章を賜った。
妻 松原氏との間に三男あり長男 一道、二男 榮次、三男 一正と云う。
墓所が高知市筆山にある。


参考資料
書籍名著者出版社
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
日露戦争実記博文館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
明治肖像録藤野彦次郎明治館
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