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軍人史跡 筆山・皿ヶ峰

武市熊吉・喜久馬墓所

武市兄弟墓所
武市熊吉・喜久馬墓所

◆皿ヶ峰山頂に続く道を進んでいると右手に現れる「武市家」墓所。
ここにあるのが元近衛陸軍大尉武市熊吉と元近衛陸軍少尉武市喜久馬の兄弟の墓である。
2人は維新後近衛軍人となるも征韓論で敗れ「赤坂喰違の変」で岩倉具視を襲撃するが失敗に終わり後に捕えられ斬罪に処された。
墓石は墓誌裏に並べられている。

武市熊吉墓
武市熊吉墓
武市喜久馬墓
武市喜久馬墓

北村重頼墓所

北村重頼墓
北村重頼墓
北村重頼墓2武市熊吉・喜久馬墓所から道なりに少し進むと赤レンガの塀の墓所が見えてくるが、そのすぐ横に茂みに入っていく道がありさらに数十メートル程か進むと北村重頼墓所がある。
勇猛の軍人として知られた北村重頼は西南の役の際に高知鎮部の為佐々木高行と共にこの故郷に派遣されたが病を得て遂に不帰の人となった。
北村もまた早逝しなければ軍人としてその名を世界にとどろかせたであろう人物の一人である。
ビッシリと記された墓碑銘の撰文は谷干城によるものである。
両親等一族の墓所は久万山にある。
北村重頼家族墓
長女(向かって右の墓石)と息子二人の墓?
重頼墓の隣には二基の墓と「北村家・酒井家」の合同墓がある。
この合同墓はどう云った物かはわからないが重頼ら三基の墓石に比べると随分新しいものだと思うがご子孫が存在するのだろうか?
ところで重頼墓石の碑文には二男一女が有る事が記されているが左の写真の右手の墓石「北村鹿寿衛 墓」側面には「重頼長女」と記されており娘である事がわかる。
もう一基には「北村勝弥 北村楠弥太 墓」と没年が記されている。
名前からして両名とも男だが重頼の2人の息子なのだろうか。

陸軍中将 森赳墓所

森赳 肖像
森赳 肖像
森赳 肖像
陸軍中将森赳の墓

◆「陸軍中将 従四位勲一等功三級 森赳墓」がわかりにくい場所ではあるが皿ヶ峰にある。
墓所には森中将をはじめ一族の墓が整然と並ぶ。
墓石側面には最終階級と「昭和二十年八月十五日 近衛師団長トシテ殉職ス 享年五十二歳」とある。
この森中将は陸士第28期、騎兵科出身で終戦の際に日本の降伏を阻止しようと企図した将校達によって起こされた宮城事件{Wikipediaへ}でクーデターへの参加を断り、畑中健二少佐から銃で撃たれ、上原重太郎大尉に軍刀で斬りつけられ死亡した人物である。

森赳墓所
森赳墓所

陸軍大将 下村定墓所

◆「陸軍大将正三位勲一等功三級下村定墓」が皿ヶ峰にある。
筆山駐車場付近にあるMAPにも一応この墓所の位置は載っているのだが大雑把な地図なのでこれでたどり着くのは難しいかもしれない。
山本泰三氏著「土佐の墓」に定の先祖下村正菴の事が記されておりこれを参考にした方が無難だろう。

最後の陸軍大臣として戦後処理に当った。
昭和四十三年三月二十四日東京文京区に於いて事故死。 下村定墓所
下村定墓所 奥には正菴等先祖の墓も並ぶ

下村定墓
下村定墓

海軍少佐 横山傳墓所

横山傳墓所
雑草をかき分けたどり着いた横山傳墓所 周囲は全て墓の背後のような状態である。

◆大東亜戦争の敗戦によりミズーリ艦上で行われた降服文書調印式に出席した海軍少将 横山一郎の父 横山傳の墓所を皿ヶ峰で発見した。
この墓所を発見するのはかなり困難で、なぜなら周囲は一面人の背丈ほどの雑草が生い茂っているからだ。
数年前、井口村刃傷事件で斬られた山田廣衛の墓を探していた時に偶然発見していたものを思い出して再度探しあてたが一度訪れた場所とはいえ雑草の為見つけるのに苦労した。
墓石は川原石で側面、背面には西森真太郎による傳の経歴が記されている。

横山傳墓
横山傳墓 墓石土台の下からは木が生えてきている。

横山傳墓所の周囲の景観
墓所周囲の生い茂る草、よく発見できたものだと思う。
寺石正路著「土佐偉人傳」の武門偉勲の項にもその名が見られるが詳細は土佐軍人列伝に記す予定なのでそちらに譲る。(※h25.6.24更新 土佐軍人列伝 横山傳
墓石には「海軍少佐 従六位勲四等功四級 横山傳墓」と記され、その隣には「横山登良墓」とあるが「昭和20年7月10日卒」とありおそらく傳の妻かと思われる。
墓域にはこれ以外の墓石は無かったように見えたが何分雑草が多かった為もしかしたらその中に埋もれていたかもしれない。
日露戦争、黄海海戦で敵砲弾の為壮烈なる戦死を遂げた海軍少佐の墓は草に埋もれたまま幾年の時を越えてきたのであろう…。

陸軍歩兵中佐 松原正治墓

松原正治墓
松原正治墓

筆山の北側の斜面に大きな笠付きの墓石がある、江戸時代の墓石かと思って見てみるとそこには「陸軍歩兵中佐 従五位勲四等功四級 松原正治墓」とある。
松原正治については土佐軍人列伝に詳細を書いているが、御親兵の頃からの古参の軍人で明治8年の「武官録」に少尉 倉知正治とその名を確認できる。
墓石は巨大な物で大国ロシアとの日本存亡の戦いで壮烈な戦死を遂げた正治への敬意を感じられるものだ。
しかし、この墓石かなり前に傾いてきており僅かな振動でも崩れてしまいそうな状態で今後が心配である。
墓石側面には西森慎太郎撰の墓碑銘に、「山内邸茶会の席にて」からはじまる、おそらく和歌だと思うのだが彫られている。
墓域には正治の一族の墓が並び、また実父の倉知武太夫の墓もある。

≪倉知武太夫 経歴≫
名を正路、号を瑞枝と称す。父は高岡郡佐川の倉知勇次郎。
早くから和漢の学を修め、北条流兵学に通じた。
詞藻豊麗で当時の歌壇に名を馳せ、郷里佐川の名教館兵学教授を勤めた。
維新後は二男正治に従い金沢、名古屋、小倉に行き、至るところで歌道の先建達として尊敬され、和歌の技能は老いて益々妙趣を発揮した。
また、長男正修は愛雀と号し和歌を嗜み武太夫の歌名を辱めなかった。
明治39年4月24日 98歳で没している。
<山本泰三著/土佐の墓を参考>

倉知武太夫墓
倉知武太夫墓

吉田数馬墓所

吉田数馬墓所
吉田数馬墓
吉田数馬墓所

所在地:高知県高知市 筆山
◆高知の偉人、野中兼山の墓所の更に上方には元近衛軍人で海南学校校長の吉田数馬の墓がある。
珍しい形の墓石で「よしだか寿万」と彫られている。

永野修身墓所

永野修身墓
永野修身墓
海軍大尉永野修身妻律子墓 永野京子墓
(左)海軍大尉永野修身妻律子墓 (右)永野京子墓
◆筆山、潮江側登山道から登っていくとあるのが元帥海軍大将「永野修身墓」である。
大東亜戦争開戦時の軍令部長で賛否両論ある人ではあるが、実際はどうなのかここでは控えよう。
東京浄真寺にも墓があり高知の方は分骨墓、隣には最初の妻律子と四番目の妻京子の墓もある。
さらに向かい側には父永野利狩(通称、春吉)、修身の長兄でありまた養父にもなる永野正路(正路には子が無く修身が後を継いだ)、三兄永野敬長の墓にその妻達の墓があり正路の墓碑は修身によるものだ。

正路は若くして細川潤次郎の門をたたき、後検事として活躍した人で最終従五位勲四等に叙されている。
三兄の敬長は大正十三年に五十三歳で没した事が記されている。
永野正路墓
永野正路墓
永野敬長墓
永野敬長墓

奈古正光墓所

奈古正光墓
陸軍少尉奈古正光墓
◆御子孫様からのご教示もあり発見することが出来たのがこの「正八位陸軍少尉奈古正光」の墓である。
大阪の真田山陸軍墓地にも墓石があるのだが、墓石の碑銘を読むとこちらは遺髪墓のようである。
奈古正光は通称を謙吉郎と云い、土佐藩士奈古誠光と島崎氏の子である。
明治3年、御親兵に軍曹としえ属し7年曹長、次いで少尉に任ぜられる。
9年に大坂鎮台附となりこの年萩の乱に征討軍として参戦、次いで西南戦争に出征するも山鹿の戦いに於いて咽喉に銃創を負い大坂城中陸軍病院に運ばれるも明治10年7月1日、34歳で不帰の人となった。
<正八位奈古正光碑銘を参考>
墓域には父、誠光と母、島崎氏の墓が並んでいる。
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