
土佐藩馬廻役三百石 二川周五郎の長男として高知城下中島町に誕生、南洋と号し維新前までは二川元助と称す。
後藤象二郎、板垣退助、片岡健吉などとは家が近所だったこともあり幼友達であった。
慶應の末より藩兵小隊長となり上京し乾退助を助け討幕に奔走。
鳥羽伏見の戦いでは土佐藩は「戦争に参加することを禁止する」との藩命出していたが板垣退助との黙約により山地忠七(元治)、吉松速之助(秀枝)、山田喜久馬(平左衛門)等と共に「万一戦争に負け、君公にご迷惑をおかけするようになったら、お互い腹をきるまで」との約束を交わし戦端を開いた。
<北村長兵衛(重頼)の砲兵隊も参戦>
迅衝隊十番隊長として今市、白河、二本松に転戦、会津若松城攻撃にも参加し戦功を立て藩主より太刀一振を賜り百二十石を加増せらる。

明治3年12月より大坂兵営予備生徒となり4年、御親兵として上京し陸軍大尉に任官し御親兵8番大隊副官となる。
6年2月 少佐に進み3月広島鎮台地方司令官心得に補し6月従六位に叙せらる。
歩兵第24連隊大隊長、歩兵第12連隊大隊長などを歴任し10年の西南戦争に従軍し八代口より敵の背面を破り熊本城との連絡を回復する。
11年3月 戦功により勲四等に叙し旭日章綬章ならびに年金百三十五圓を賜う。
13年4月 中佐に進み5月 歩兵第13連隊長に補し6月正六位に叙し、15年3月 歩兵第11連隊長、16年6月 名古屋鎮台司令官に転じ18年11月勲三等旭日中綬章を賜う。
19年5月 歩兵第17連隊長に補し20年4月大佐に進み22年7月従五位に叙せらる。
25年2月 近衛歩兵第2連隊長に転じ27年10月正五位叙し、日清戦争では28年5月台湾征討の命を受け出征。
山貂大嶺、新竹、彰化、嘉義を制圧し露営中 山根信成近衛歩兵第2旅団長病没の報ありその後任となり陸軍少将に進級した。
10月台南を陥落し台湾を平定、凱旋後 戦功により功四級に叙し年金五百圓を賜る。

29年2月 歩兵第10旅団長、33年4月には再び近衛歩兵第2旅団長に補せらる。
35年6月 陸軍中将となり予備役に編入せらる。
日露戦争勃発により召集を受け留守第1師団長に補し、37年11月 後備第1師団長として満州にわたり鴨緑江軍に編入となり奉天会戦に参加、戦後の39年1月召集解除となった。
戦功により勲一等功三級に叙し40年には男爵を叙爵し華族となり、牛込区議、貴族院議員、富士生命社長などを勤めた。
大正11年2月22日に華族会館前にて事故に遭い、岩島病院にて治療を受けるも一度も覚醒せず3月1日夜7時に逝去した。
墓所は青山霊園にある。
夫人 春との間に二男一女あり長男 戒爾は陸軍砲兵少尉、次男 勸爾、長女 夏子は寺田寅彦に嫁いだ。
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