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西南戦争 熊本城籠城戦の英雄

谷干城 氏名
谷干城(たに たてき)


最終階級
陸軍中将 正二位勲一等 子爵

生没年
1837年3月18日〜1911年5月13日
天保8年2月12日〜明治44年5月13日

草創期
谷中将 〜生誕・幕末〜

尊皇攘夷派の上士
谷景井(通称 萬七)と伊久(小野氏)の子として土佐国高岡郡窪川に誕生(生誕地碑)、幼名を申太郎、通称を守部と云う。
祖先に有名な儒学者 谷秦山を持ち建軍期に陸軍大佐として共に出仕した谷重喜は遠戚に当る。
幼少より父に弓術、剣術を習い、弘化3年10歳の頃に父萬七が藩の教授館附を仰せつけられ高知に移住する。
高知に出てからは伯父 丹作に就いて学問を学び、剣術、弓術、砲術を修めた。
安政3年江戸勤務を仰せつけられ当地にて安積艮斎の門を始め各師に就き文武を学び、翌4年帰高。
6年には再び江戸に出て安井息軒に師事する、息軒の塾では大いに感ずる所があったようで「余の粗暴頑愚にして先生の門に入らざれば必ず暴に非れば愚に陥りしならん。我の人となりしは実に我が父と我が師と我妻の恩なり。」と述懐している。
また、同塾には河野万寿弥(敏鎌)、池内蔵太もおり二人は度々外泊し塾中の取締の職にあった干城は同郷と云う事もあり度々二人を諌めたが、文久元年に安井塾を辞し帰路の大坂で武市半平太と会し尊皇攘夷を語った際には河野、池も同席し薩長有志との国事奔走を聴きその理由を知った。
土佐に帰郷した干城は時勢を憂い参政 吉田東洋を訪ね、大いに尊皇攘夷を論じ諌められたが東洋の度量の大きさに感心もしている。 文久2年には国澤七郎右衛門の二女 玖満子と結婚。

討幕に奔走
その後も攘夷派志士等との交際を重ねるも元治元年、攘夷派の不遇の時代には干城も久礼村に左遷されるなどの処遇を受けた。
1年後の慶應元年、高知に呼び戻され致道館助教を命ぜられ、11月 助教を免ぜられ前野悦次郎と共に長崎表探索御用として長崎、上海を視察。
この時長崎では後藤象二郎、坂本龍馬と会し両者の討幕論に賛同する。
慶應3年 帰高後、小目附を以て京都に上り薩土密約(薩摩から小松帯刀・西郷隆盛・吉井友実、土佐から中岡慎太郎・板垣退助・毛利吉盛・谷干城)を結び軍備御用文武調役を命ぜられ板垣と共に討幕への軍備を進めた。
鳥羽伏見での開戦により干城も土佐藩迅衝隊 小監察を以て出征し高松、丸亀を鎮定し京都にて大監察となり東征に出征する。
甲州勝沼の戦いから会津若松の戦いに至るまで各地に転戦しまた、軍資金の収集などにも苦心している。
凱旋後、戦功により仕置役となり二百五十石を下賜されている。

幕末の谷干城
幕末の谷干城
谷中将 〜新政府への出仕、そして西南戦争へ〜

明治政府に出仕
明治2年 土佐藩参政に就任した干城は藩の兵制改革を行いフランス式兵制を採用し外国人教師をはじめ旧幕臣の沼間守一等を招聘し軍備増強に努めた。
3年より高知藩小参事に就任し、切迫する藩財政再建の為に財政緊縮、冗費削減などの財政改革にも着手するがこの改革を巡り板垣退助、後藤象二郎と対立し遂に失脚にまで至った。
4年 薩長土の三藩より御親兵献上にあたり山地元治北村重頼の熱心な勧誘により藩政に復帰し藩兵を整理し上京、新政府へ任官する。
7月 陸軍大佐に任ぜられ兵部省軍務局員となる、またこの頃高知の秀才を選抜し東京の兵学校に入学させたがこの中には村木雅美、楠瀬幸彦等がいる。
5年4月 陸軍裁判所長に補し9月 陸軍少将に進む。(叙従五位)
6年4月 徴兵令に反対し陸軍省の法規に全く従わない陸軍少将 桐野利秋に代わり干城が熊本鎮台司令長官に抜擢される。(叙正五位)
熊本に赴任し無秩序なる鎮台兵の近代化に努める最中、征韓論争による政府分裂の報に接し板垣が土佐出身軍人を扇動して多くを辞職させた事を強く非難した。

西南戦争の頃の谷
西南戦争の頃の谷

台湾出兵・西南戦争
7年2月 佐賀の乱鎮圧に貢献し同年4月 台湾出兵には西郷従道都督の下、陸軍参軍として台湾に出征(海軍参軍は赤松則良)し指揮を執った。
10月に帰朝し8年1月 蕃地事務局へ出仕するも2月 政府への不満から辞表を提出し一時職から退いた。
9年11月 神風連の乱で殺された司令長官 種田政明の後任として再び熊本鎮台司令長官に任ぜられる。
翌10年の西南戦争では云わずとも知れた熊本鎮台の籠城戦では西郷軍の猛攻撃をもよく凌ぎ、西郷隆盛も干城の手腕を讃えている。
夫人 玖満子も共に籠城した事はよく知られている。
この籠城戦により干城の名は官民問わず英雄として不動のものとなった。
戦功により勲二等旭日重光章及び金六百圓を賜る。
11年11月 陸軍中将に進み東部監軍部長に補せらる。

谷中将 〜陸軍を退き政治家へ〜

長崎梅ヶ崎墓地改葬事件
明治12年頃より、軍人恩給令の改正、藩閥による人事への非難など政府の施策への疑問を感じていた。
そのような時に台湾出兵の戦病死者の遺骨が長崎病院の拡張事業により改葬の際に散乱、中国人へぼ売却が明るになるも政府はこの問題を軽視した。
兵を実際に率いた干城は抗議し陸軍中将の辞表を提出するが政府は官民共に信望篤い干城の辞表を憂い13年に就任していた陸軍士官学校長兼陸軍戸山学校長の職を免じる事で問題の決着を図った。
その後、野にあり山内豊範の依頼で海南学校事務総監などを務めていたが17年 学習院長に就任、この年 子爵を授けられ華族となった。

晩年の谷干城
晩年の谷干城
晩年の谷干城
晩年の谷干城

政治家としての谷
18年12月 第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣に任ぜられ19年(勲一等旭日大綬章を叙賜)より欧米視察に派遣され多くを学んだ。(視察中 7月正四位 10月従二位に叙せらる)
20年6月 帰朝し条約改正問題で欧化政策を批判し7月大臣を辞任し高知に戻り、21年7月には学習院御用掛を仰せつけられるも4カ月で辞任。
22年8月 後備役編入、23年7月 貴族院議員に当選し日清戦争後の地租増徴への反対、足尾鉱毒事件に対して政府の保護を求める活動など独自の政治運動を展開し、影響力ある特異な論客として重きをなした。
38年10月 退役、44年2月 勲一等旭日桐花大綬章、4月 正二位を叙賜、5月13日 東京市谷の自邸にて薨去、享年75歳、高知市久万山の先榮の地に葬られる。
谷干城の人生を見ていると
「行動は大胆不敵にして豪快で、己の主義信念を貫くためには時として、自己より優位の権力を持つものとも係争する反骨精神を有する」
と云う土佐いごっそうを正に地でいく人物であったように思う。
坂本龍馬や板垣退助に勝るとも劣らぬ土佐が生んだ英雄であった。


参考資料
書籍名著者出版社
高知県人名事典「高知県人名事典新版」刊行委員会高知新聞社
子爵谷干城伝平尾道雄冨山房
迅衝隊出陣展中岡慎太郎館中岡慎太郎館
谷干城小林和幸中公新書
谷干城遺稿 上下島内登志衛靖献社
谷干城のみた明治高知市立自由民権記念館高知市立自由民権記念館
土佐偉人伝寺石正路富士越書店
土佐藩戊辰戦争資料集成林英夫高知市民図書館
明治過去長 物故人名辞典大植四郎東京美術
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